もし、社会が示す「正しさ」の物差しと、自分自身の「感覚」との間に、埋めようのないズレを感じたなら。
もし、大きな成功や評価ではなく、道端の草花のような、ごく個人的で小さなものにこそ魂の救いを見出してしまうなら。
私たちは、その、言葉にならない「ズレ」を、どう扱えば良いのでしょうか。
先日開催された8月の探究講座は、100年以上前に書かれた二つの物語——森鷗外『高瀬舟』と梶井基次郎『檸檬』——を鏡として、この根源的な問いを、参加者の皆さんと共に探究する、静かで、しかし濃密な「旅」となりました。
今回は、その対話の「場」で生まれた、奇跡のような共鳴の瞬間を、あなたとも分かち合いたいと思います。
【第一の鏡】『高瀬舟』―「足るを知る」という、静かなる革命
最初に私たちが乗り込んだのは、罪人・喜助が護送される舟の上という、極限の閉鎖空間。そこで交わされる、静かな対話の世界です。
「普通、罪人なら絶望するはず。なのに喜助は『有り難い』とさえ感じている。このズレがすごい」
一人の参加者のその呟きが、私たちの探究の羅針盤を定めました。私たちは皆、常に「もっと、もっと」を求められる社会に生きています。だからこそ、二百文の銀に絶対的な満足を見出す喜助の姿が、現代を生きる私たちにとって、痛烈な問いを突きつけてくるのです。
この問いは、対話の場で、二つの異なる光を放ちました。
一つは、「人生の充足とは何か?」という、私たち自身の生き方を照らし出す光。
もう一つは、「この話、現代の組織論や働き方改革そのものだ」という、現代社会を読み解く光でした。
喜助の生き方は「サステナブルな満足」という未来の働き方のモデルとして、そして上司と現場の板挟みになる護送役・庄兵衛は「悩める中間管理職そのもの」として——。100年前の物語は、驚くほど生々しい現代の寓話として、「翻訳」され直されたのです。
【第二の鏡】『檸檬』―「私の美」を取り戻す、ささやかな反逆
次に私たちが迷い込んだのは、えたいの知れない憂鬱に心を蝕まれた「私」が、一個の檸檬に完全な美を見出す、感覚の世界です。
「理由はないけど、どうしようもなく気分が塞ぐ時って確かにある。梶井の文章は、その感覚をすごく正確に言い当てている」
多くの参加者が、主人公の心の機微に深く「共鳴」しました。そして、主人公が書店に檸檬をそっと置いてくる、あの有名なシーン。
この行為もまた、二つの光を放ちました。
一つは、「大きなことはできなくても、この小さな行為で、彼は自分の世界の秩序を少しだけ取り戻した」という、個人の魂の救済の物語として。
そしてもう一つは、「これは現代クリエイターのスランプそのもの。完璧な計画なしにまず小さく世界に介入してみる、デザイン思考的なアプローチだ」という、現代の創造性の物語として。
主人公のささやかな反逆は、「美しいMVP(最小限で実現可能なプロダクト)開発」として、鮮やかに現代に生まれ変わりました。
物語を鏡として、自分だけの「問い」と「羅針盤」を手にすること
対話の終盤、ある参加者が、二つの鏡を繋ぎ合わせるように、こう語ってくれました。
「喜助も『檸檬』の主人公も、社会の大きな価値観から外れたところに、自分だけの救いを見つけている。一方は『満足』で、もう一方は『美』。でも、構図は全く同じですね」
この探究の「場」で見つかるのは、分かりやすい「答え」ではありません。
むしろ、参加者一人ひとりが手にするのは、明日からの日常を、これまでとは少し違う解像度で見るための、新しい「問い」と、自分だけの「羅針盤」です。
「普段の生活の中で、自分だけの『高瀬舟』の時間(静かに内省する時間)や、『檸檬』(心を上向かせる美しいもの)を見つける視点を持ちたい」
講座が終わる頃には、そんな言葉が、参加者の皆さんの実感となって、会場を満たしていました。
ただの「昔話」だと思っていた物語が、私たち自身の「今の物語」として、深く心に刻まれた一日でした。


