■ はじめに:「わかっているのに、離れられない」関係性のパラドックス
「モラハラだと、頭ではもう十分にわかっている。けれど、なぜかこの関係から離れられない…」
「あの人がいないと、自分は生きていけないような気がしてしまう」
「理不尽だと心の底では感じながらも、相手の言うことに従ってしまう自分が、もう何年もいる」
「言いたいことが山ほどあるのに、それを飲み込んで我慢してしまうのが、いつの間にか“癖”のようになってしまった」
もしあなたが、特定の誰かとの関係性の中で、このような言葉にならない息苦しさや、自分自身を失っていくような感覚を抱えているとしたら。それは、あなたが今まさに、「支配と服従」という、深く、そして抜け出しにくい人間関係のパターンの中にいることのサインなのかもしれません。
そして、この一見不健全に見える関係性の中には、しばしば“つかの間の安心感や、慣れ親しんだ役割と引き換えに、自分自身の本質的な部分を差し出してしまっている”という、根深い心の構造が隠されています。私はこの構造を、単なる一方的な「力の差」の問題としてだけではなく、むしろ、私たち一人ひとりが持つ「人生脚本」や、幼い頃に形成された「愛や安心の誤認」といったものが複雑に絡み合い、無意識のうちに選び取ってしまった“関係性のあり方”として捉え、探求しています。
■ 「力の不均衡」は、必ずしも“一方的に望まれていない”わけではないという現実
先日の探究講座で、ある人間関係の事例について皆で議論を深めていたときのことです。一見すると、明らかに一方的な支配構造の中で苦しんでいるように見える方(Bさんとします)に対して、別の参加者から、こんなドキッとするような指摘がなされました。
「Bさんご自身も、もしかしたら、無意識のレベルでは、その関係性の中に“とどまっていたい”と願っている部分があるように見えるのですが…」これは、決してBさんの苦しみを軽視したり、責任を転嫁したりするような言葉ではありません。むしろ、この指摘は、支配される側にも、その不健全な関係性を維持してしまうことによって、皮肉にも得ている“何か(例えば、決断しなくて済むという安心感、あるいは、慣れ親しんだ役割に留まることによるある種の安定感)”が存在する可能性を示唆しているのです。この「隠れたメリット」に光を当てない限り、本当の意味でこのダンスから自由になることは難しいのかもしれません。
■ 「支配と服従のダンス」は、“対等な関係への恐れ”から始まる協定
この「支配と服従」の力動を、改めて定義し直してみると、それは以下のような心理的な動きとして捉えることができます。
- 「支配」とは: 関係性における主導権やコントロールを一方的に“奪い取る”こと、あるいは相手に自分の価値観を強いることを通して、自分自身の内面にある深い不安や無力感を、一時的に覆い隠し、コントロールしようとする行為。
- 「服従」とは: 自分自身の本来の意思や感情、欲求を“差し出す”こと、あるいは抑圧することで、相手からの拒絶や見捨てられることへの恐れを回避し、一時的な安心や所属感を得ようとする行為。
つまり、この一見アンバランスに見える関係は、実は、“双方の根深い恐れと、それに基づく歪んだ依存の形が、まるで協定を結んだかのようにして”成り立ってしまっている、と言えるのではないでしょうか。そして、その根底には、お互いが未だ向き合えていない、「対等な個人として、ありのままの自分をさらけ出し、率直に関わり合うことへの“怖さ”」が、深く横たわっているのかもしれません。
■ なぜ私たちは、「支配される人生脚本」を無意識に選び取ってしまうのか?
では、なぜ私たちは、苦しいとわかっていながらも、このような「支配される(あるいは支配する)人生脚本」を、無意識のうちに選び取り、そしてそれを手放すことがこれほどまでに難しいのでしょうか。
その根源を辿っていくと、多くの場合、私たちの幼少期の体験や、そこで形成された「愛とはこういうものだ」「安心とはこういう形で得られるものだ」という、深く刷り込まれた“愛や安心の形式(思い込み)”に突き当たります。
例えば、
「良い子にして、親の言うことを素直に聞いているときだけ、愛され、認めてもらえた」
「自分の感情や欲求をストレートに表現すると、親から怒られたり、拒絶されたり、無視されたりした」
「自分が我慢し、相手の気分や期待に常に合わせることが、家族や周囲との調和を保つ唯一の方法であり、それが“愛されるため”の賢明な戦略だと学んだ」——。
こうした、過去に生き延びるために身につけた「愛の獲得戦略」が、大人になった現在の、全く異なるはずの人間関係にも、無意識のうちに“そのまま持ち越され、適用されてしまっている”のです。
だから、今の関係性の中で支配され、不当な扱いを受け、苦しいと感じている。論理的には、そこから離れるべきだとわかっている。けれど、その支配的な構造から離れるということは、心の奥底では、かつて慣れ親しんだ「(歪んだ形ではあるけれど)愛や安心を得るための唯一の方法」を手放すこと、つまり「愛そのものを失ってしまうのではないか」という、耐え難い恐怖のように感じられてしまう。だからこそ、私たちは、“たとえ不健全であっても、慣れ親しんだ関係性の中に、自ら進んで居場所を設計し、そこに留まろうとしてしまう”という、痛ましいパラドックスに陥ってしまうのです。
■ 「あなたは、人生のどの地点で、“自分の本音を差し出さない”と決めたのでしょうか?」
- 親の顔色を常に窺い、自分の本当の気持ちを押し殺して生きてきた、あの頃。
- 自分の感情をありのままに表現したら、誰かにひどく怒られたり、拒絶されたり、あるいは笑われたりした、あの忘れられない体験。
- 自分がただ黙って我慢し、波風を立てないように振る舞えば、家族やクラス、職場が一時的にでもうまく回ったように見えた、あの瞬間。
こうした、過去の記憶の中に「私は、これ以上傷つかないために、自分の本音を表現することをやめよう」「こうして自分を抑えている方が、安全に生きていけるのだ」という、幼いあなたが下した“人生における、ある種の決断”が、化石のように眠っているのかもしれません。
私は、この“過去の、今となっては不自由な決断”にこそ、変化への鍵が隠されていると考え、そこに着目します。なぜなら、「支配的な関係性から本当に自由になるためには、まず、その“過去の決断”の存在に気づき、それが今の自分にはもはや適合していないことを認め、そしてそれを意識的に“更新”していく必要があるから」です。
■ 本当の自由とは、「関係を破壊すること」ではなく、「関係性の“枠組み”そのものを、勇気をもって問い直すこと」
「服従」という名の、古い感情のダンスから抜け出すということは、必ずしも、相手を一方的に否定したり、戦いを挑んだり、関係そのものを破壊したりすることを意味するのではありません。もちろん、状況によっては物理的に距離を取ることが最優先される場合もありますが、本質はそこにはありません。
それはむしろ、「この関係性の中で、私は本当は何を大切にしたかったのだろうか?」「どんな感情を感じ、どんな自分でいたかったのだろうか?」と、自分自身の内なる声に深く問い直し、そこで見えてきた本来の価値や願いを、再び“自分自身の主体的な選択”として、その手に握りなおすことなのです。そして、その上で、相手との関わり方、コミュニケーションの取り方、そしてお互いの間に存在する「力の不均衡」という“枠組み”そのものを、変えていくための具体的な一歩を踏み出すことです。
■ 結びに:本当の強さとは、「弱さを感じながらも、自分の尊厳と意志を選びなおせる、静かな決断力」
支配されない、あるいは支配しない、対等で尊重し合える関係性を築くための強さとは、決して、相手を力でねじ伏せたり、論破したりするような、攻撃的な力のことではありません。
それはむしろ、どんなに不健全な力の構造の中に置かれても、あるいは過去の脚本に引き戻されそうになっても、自分自身の尊厳や本質的な部分を、決して安易に明け渡さないという“静かで、しかし揺るぎない決断力”です。
そして、その変容への道のりは、こんな小さな、しかし勇気ある言葉から始まるのかもしれません。
「私は、今、こう感じています」
「私は、本当は、これを大切にしたいと願っています」
「この関わり方は、私にとって心地よいものではありません」その、自分自身の本音に根差した一言が、これまで繰り返されてきた関係の古い振り付けを静かに変え、支配と服従という「力のゲーム」ではなく、互いの存在を尊重し合う「信頼と対話のダンス」へと、あなたと、そして相手をも移行させていく、かけがえのない最初のステップとなるのです。


