こんにちは、TOSHIです。
私が最も大事にしている価値観は「濃縮に生きる」ということです。私自身が濃縮な人生を常に目指して探求していますし、この価値観を世の中に広めたいとも思っています。
もちろん、生まれたときから「濃縮に生きる」ことを目指していたわけではありません。私が生きてきた過程の中で、生まれてきた価値観なのです。
なぜ私が濃縮な人生を目指すのか? そのルーツを述べてみたいと思います。
なぜ生まれてきて生きているのか?
私は幼いときから人見知りで、友達も少ない子供でした。そのため一人で悩んだり考え事をする時間が多かったのかもしれません。
記憶にある限り、それは小学校高学年までさかのぼります。「なんで生きているんだろう?」という疑問を持っていました。いじめにあったことが影響しているのかもしれません。クラスの友達に寄ってたかって無視されて、つらかったからかもしれません。自殺を考えたことすらありました。
一人の時間が多かった小学校時代
父親の仕事の関係で、小2、小4、中3のそれぞれ進級のタイミングで転校をしました。そのため「幼馴染の友達」という存在はいませんでした。だからというわけではありませんが、友達は決して多くはありませんでした。
特に小学校の高学年では、少ない友達もみんな塾に行っていて、私は塾には行かせてもらえなかったので疎外感がありました。実際、皆が塾に行っている時間は一緒に遊ぶこともできず、一人の時間が長くなりました。テレビゲームにも飽きると、時間を持て余して「つまらない」と感じて退屈でした。その頃から「なんで生きているんだろう?」ということを思い始めたように思います。
人気者が一転して単なるガリ勉に
進学した公立中学校は、私が入学する数年前までは「男子は丸刈り」の校則があったようなところでした。真面目な性格が幸いしたのか、先生や先輩に気に入られて、テニス部の副キャプテンをやったり生徒会役員をやったり、一目置かれる存在になっていました。毎日いろんな活動があり、とても忙しかったですが、充実していたと思います。周囲の皆から「あいつは違う」というような目で見られるのが心地よかったのでしょう。
ところが、そんな中学校生活も中3に上がるときに転校して環境が変わってしまいます。何を間違ったのかわかりませんが、転校先では私は単なる「真面目なガリ勉君」になってしまいました。「成績だけはやたら良いけど何を考えているのかわからない奴」というように見られていたはずです。
高校受験のときは調子に乗って、開成、筑駒から上位校を受けますが軒並み落ちて、結局滑り止めの私立高校に進学することになります。
見栄を張りまくっていただけに罰が悪く、どん底の気分でした。そして大学受験では絶対に成功してやると心に決め、高校3年間を勉強だけに捧げることを誓います。
歪みまくった高校時代
勉強だけに捧げることにした高校生活だったので、とてつもなくつまらなかったわけです。通学で片道1時間半かかっていたこともあり、本当に通学と勉強だけの日々でした。選抜クラスで、3年間クラスメートの面々も変わらず。自分でそう決めたにも関わらず、そんな毎日に不満でした。
世間の高校生が楽しそうにしているのを脇目に見て、うらやましく思っていました。負け惜しみで「あいつらは馬鹿だ。そのうち後悔する。」と言い聞かせていました。とっくに自分自身は後悔していたのに(笑)
そんな歪んだ思いを抱えながら日々を送っていたからでしょう。思考も歪んでいきました。「自分は何者かであるはずだ。いや、何者かでなければならない。」と思うようになり、「一般大衆とは違うんだ」と信じるようになっていきます。もちろん、今となって思えば「信じたい」だけだったわけですが。
その流れだったと思います。東京に住んでいたので、「東大に行くのは普通。だから敢えて京大に行く」と決めました。高校の担任からは「関東にはいくらでも良い大学があるのに、なんでわざわざ遠くに行くんだ?」と言われても、聞く耳を持ちません。そういうことじゃないんで。みんなと違うことがしたかっただけなので。
超ギリギリで受かった大学受験
この話だけだと、考えが歪んでいても一貫していて格好良く見えるかもしれませんが、途中で揺れています。
高3になって通っていた予備校にも、いろんな人が通うようになり、仲の良い友達グループができました。それで楽しくなって遊んでしまいます。高3の夏から秋ごろの成績は落ちてきて、高3になってから受験勉強に本腰を入れてきた人たちに猛追されるようになります。
で、国立大学の前期試験は京都大学理学部を受験したのですが、落ちてしまいました。
このときのことはほとんど覚えていません。予備校の担任に後から聞いた話では、「自殺でもしてしまうんじゃないか」と心配されていたそうです。前期試験と後期試験の間に、高校の卒業式があって、進路の決まらないまま宙ぶらりんな状態で高校を卒業します。
まさか後期試験を受けることになるとは思っていなかったわけですが、たまたまセンター試験の国語の点数が良かったので、それが加算される京都大学農学部に出願していました。後期の倍率は15倍以上で、とても受かる気はしていなかったので、予備校巡りをして、浪人したらどの予備校に通おうかとパンフを集めていた記憶があります。
後期の試験はヤケクソで受けに行きました。でも、それが良かったのでしょう。受かりました。3月の末のギリギリになって、進学先が決まりました。
ただ、この時点で自分自身に絶望していました。行きたかったのは理学部なのに、進学するのは農学部。
自分自身に絶望し新興宗教に救いを求める
自分は何者かであって、選ばれた存在であるはずなのに、簡単に前期試験には落ちてしまった。
そして、大学の授業が始まってみると、いきなり数学や物理の授業にはついていけない。「受験範囲」という限られた枠内で勉強してきていて、その中の小さな世界しか知らなかったのが、大きな海に放り込まれた感覚にもなりました。
ああ、無理だ。自分は何者かなんかじゃない。一般大衆の一人なんだ。……そんな馬鹿な!
新入生歓迎でいろんな部活やサークルが勧誘合戦をしていました。その中の一つが宗教の勧誘を目的としたダミーサークルだったわけですが、そこに惹かれていくことになります。「地位や名声を得ても幸福にはなれない」「お金を稼いでも死んだら持っていけない」「みんな意味のないことにあくせくしている」など、私がずっと思っていたことを言葉にしてくれるので、どんどん引き込まれていきます。熱心な新入生になっていきます。
1か月くらいしたとき、合宿に連れていかれ、そこで宗教であることが明かされました。「この教えを信じることだけが救われる道だ」と。後から考えれば、到底受け入れられない論理ですが、このときは時間をかけてじっくり洗脳され、人間関係もこの宗教関係にしかなくなっている状況を作られてしまっていたので、簡単に受け入れてしまいました。
教祖の講演を聞くために、毎週のように地方に行きました。その交通費を稼ぐために、死にそうになりながら日雇いのバイトをしたものです。
新興宗教でも救われなかった……
この新興宗教からは5か月くらい経った夏休み中に、脱退することになります。新興宗教も、社会に害をなすものでなければ問題ないでしょう。むしろ、必要とする人もいるでしょう。この宗教が悪だと言いたいわけではありませんし、悪だったから脱退したわけでもありません。
私もこの宗教に完全に染まっていたら、もしかしたらそれなりに幸せだったのかもしれません。たまに大学キャンパス内で常にニヤニヤしている人に遭遇しましたが、あんなふうになっていたかもしれません。
その宗教の教義に疑問を持ったというよりも、その組織にいる自分自身の未来が耐えられなくなった、というのが正しいです。その組織では、教祖をトップとしたヒエラルキーがあって、所属年数や貢献によって階段を上っていく仕組みになっていました。5年後にはあの人のようになっているのか、10年後にはあの人のようになっているのか……。まるで会社員が自分の将来を上司に重ねて見るのと同じようなことを経験しました。
「これは自分が求めているものではない」と感じて、離れていきたくなったのです。
人間不信から引きこもり生活へ
脱会自体はそんなに大変なものではなかったと思います。それよりも、精神的に洗脳から解放されるのが大変でした。教義にはしっかり染まっていたので。「脱会してしまったから、自分は地獄に堕ちてしまうんだ」と本気で思っていました。
何をされるわけでもなかったのですが、宗教関係者からはほぼひっきりなしに電話がかかってきました。それも恐怖でした。大学のキャンパス等で顔を合わせるのも怖かったので、引きこもりになりました。生活のすべてを宗教関係に取られていたので、友達も作れなかったので、引きこもるしかなかったのです。誰も人を信じられなかったということも大きいです。何もかも信じられない。
引きこもりの期間は半年くらい、学年が上がるまで続いたのですが、この間には本を読みふけっていました。恥ずかしい話ですが、私はそれまで科学系の本くらいしか読んだことがなく、社会系やビジネス系の本はほとんど読んだことがありませんでした。なので、とても新鮮でした。
宗教の洗脳から解き放たれようと、それ以外の「答え」を求めて、必死だったように思います。宗教は教義の中で「生きる意味」や「人生の目的」を教えてくれていましたが、それに代わるものを探したのです。
哲学や数学に答えを求めるが
学年が上がって引きこもりの期間を脱すると、学問に答えを求めるようになります。農学部の所属でしたが、文学部哲学科や理学部数学科に頻繁に顔を出して、勉強会などをしていました。
これも数年続きましたが、結局は満足のいく答えを得ることはできませんでした。哲学科でやっていたことは、「過去の誰々がこう言っていた。その言葉の解釈は……」のような言葉遊びのようなことばかりやっていて、「それを踏まえて自分の生き方は?」のような話にはなりません。
大学でやる学問というのはそういうことなんだ、と悟りました。
数学にしても同じことで、複雑に論理をこねくり回しているだけにも思えました。もっとも、数学に関しては私にセンスも才能もなく、理解できずについていけなかっただけなのかもしれませんが。
そんな中、父親が勤めていた会社が倒産します。東証一部上場の大企業でしたが、山一證券の破綻などのあおりを受けてのことだったようです。学費や生活費の仕送りもこれまでのようにはできないと言われ、塾講師のアルバイトをするようになりました。
忙しい日常に埋没する日々に
塾講師のアルバイトはどんどん忙しくなり、一番忙しいときで3つの校舎を掛け持ちしていました。肉体的にものすごくハードでしたが、没頭できました。
忙しさの中に、そしてクタクタで倒れそうになるくらいの生活の中に、生きている実感があったのだと思います。
大学には行かなくなり、バイト一色の生活になっていました。大学に行く学費を稼ぐために、そのための生活費を稼ぐためにバイトをしていたのに、本末転倒ですが、当時の私にとってはそれでも良かったのです。
忙しくしていれば、自分が生きる意味なんて、考えなくて済んだのです。
卒業単位がそろわなかったのと、進路が決まっていないということもあって、1年間休学しバイトに専念する期間を作りました。復学後はそのまま農学部の大学院に進学することにします。が、やはり修士課程1年目もバイト三昧でした。
さすがに修士2年目は研究もしないといけないし、進路についても考えなくてはいけません。バイトを全部辞めることにしました。
時間ができると再度悩みに襲われた
バイトをしなくなり、時間ができるようになると、また「なぜ生きているのか?」の疑問に襲われるようになりました。現実的に進路を考えなくてはいけないというのも、それに追い打ちをかけました。
夜に眠れなくなって、精神科を初めて受診したのもこの頃です。
「なぜ生きる?」の疑問は保留したまま
卒業後、最初に就職したのはブラック企業で、3か月と持ちませんでした。が、その後に契約社員として就職した学習塾は、そこそこ居心地の良いところでした。正社員ではないので責任をそこまで追求されることはありません。学習塾講師なので、講習中などを除いて普段は夕方から出勤して退勤後は終電まで職場の仲間たちと飲む、という毎日でした。この日々の中に埋没していきます。
数年いると待遇にも不満が出てきて、保険代理店に転職しました。こちらは成果給なのでぬるいものではありませんでしたが、来店型保険ショップということでそこまでハードでもなかったと思います。地方に飛ばされたり、それはそれでいろいろありましたが、毎日をこなしていました。
無為に過ごした社会人生活
ただ会社に行って仕事をこなすだけ。朝起きて出勤して、仕事をして、退勤したら夕飯を買って帰って食べて、テレビを見たりネットサーフィンをしながら眠くなったら寝る。休日は決まってパチンコに行っていました。
特にその生活で何も考えることはなかったのです。もちろん、会社や仕事などに不満はいくらでもありました。同僚と飲みに行って、グチグチ言っていたのもよく覚えています。ああすれば良いのに、これじゃダメだ……、と完全に批評家になっていました。
再び人生の意味を考える
そんな生活を送っていたある日の夜、突然の知らせを受けます。中学時代の同級生が亡くなった、という知らせでした。彼は高校卒業後に大学に進学はせず、警察官になっていました。白血病に罹って、闘病中だったそうです。結婚して家族もいました。
中学時代の同級生の死
彼とは中学時代に同じ部活で、一緒のクラスだったこともあります。私が引っ越してからは、遊びにいく度に家に泊めてもらったりもしました。
訃報を知らせてくれたのは、やはり中学時代の同級生で、亡くなった彼とは同じ職場だった人でした。その人が彼の生前のことをいろいろ教えてくれました。彼は生前、私のことも話題にしていたそうです。
「あいつは何をしているのか、想像もつかないよな。きっとものすごいことを成し遂げるんだろう。」というようなことを言っていたそうです。これを聞いたとき、鈍器でゴーンと頭を殴られたような感覚になりました。私は一体何をやっていたんだろう。何をやってきたんだろう。
なんとも言えない恥ずかしい気持ちに襲われました。それまでの自分自身の生き方を激しく後悔もしました。
彼の通夜にも告別式にも、遠方で仕事もあるから、と言って出席しませんでした。が、行く気であれば行けたはずです。「合わせる顔がない」というのが本音のところだったと思います。最悪です。実は、いまだに彼の仏前に手を合わせることができていません。
恥ずかしい生き方をしていた
もう彼と、人生について語らうことは二度とできないのです。私が何をやっても、彼に見せることはできないのです。そして、過ぎてしまった時間は決して戻すことはできません。このことを痛いほど思い知りました。
自分のそれまでの生き方を振り返って、「このままではダメだ」と強く思いました。彼は私に、自身の死をもって大切なことを教えてくれたような気さえしています。このとき私は32歳。彼も同い年でした。まだまだやりたいことがいくらでもあっただろうに。仕事も、家庭も、「これから」というときに。
それに引き換え、私は当時ペーペーの平社員で、特に出世の意欲もありませんでした。なんとなく仕事をして、給料をもらって、休日はパチンコに行って無為に過ごしていました。独身で、気楽なものでした。
もちろん、そのまま終わるつもりはなかったですが、でもそのぬるま湯は心地良く、永遠にそこにいても大丈夫な気がしていました。時が止めれるかのように、錯覚していたのです。「いつか、本気を出せば良い」と、そう思っていたかもしれません。
学生時代までは、あれだけ真剣に「なぜ生きるのか?」を問い、真面目に探究してきた私だったのに……。皮肉なものです。いつの間にか、その問いすらも忘れ、流されるままに何となく日々を消化しているだけの人生を送ってしまっていたのですから。
これは私の人生を真剣に考え直す、大きな契機となりました。これが直接のきっかけではないですが、その半年後には会社を辞めて起業することになります。
濃縮に生きる決意
「なぜ生きているのか?」の答えはわかりません。
ただ言えることは、いつか必ず死を迎える、ということです。
そして、いつまでも同じではいられない、ということ。時間は容赦なく流れていき、過ぎた時は絶対に戻ってはこない。昨日と今日では何も変わらないように思えても、自分自身も確実に老いてゆく。世界は変わっていく。「また会いたい」と思った人と、もう二度と会えなくなるかもしれない。
今この瞬間は、まさに今この瞬間にしかありません。取り戻すことは決してできないのです。だから今この瞬間を大事に、精いっぱい生き切るしかないのだと思います。
後悔しない人生を生きたい
後悔しない人生を生きたいと思います。死ぬ直前に人生を振り返るのだとしたら、後悔の中で死んでいくよりも、満ち足りた気持ちに包まれて旅立っていきたい。
「濃縮に生きる」とは、今この瞬間に全力を注いで、密度の濃い時間を紡いでいくこと。そんな濃縮な時間の積み重ねの先に、濃縮な人生が形作られ、満足のいく人生になっていくのではないか、と考えています。
言い換えれば、一瞬一瞬に全力を注ぎ、後悔を残さないということでしょう。できるはずのことをやらなかったなら、後悔します。それが無いように。ほんの一瞬たりとも、そんな瞬間を作らないように。
完璧にそんな生き方ができるかと言われれば、現実的には難しいのかもしれません。しかし、それを目指し、近づける努力をすることはできます。
決して取り戻すことができない、今この目の前にある瞬間を精一杯大事に生きること。それがこの人生を「生き切る」ことと言えるかもしれません。
何かこの人生に意味があるのだとしたら、生きる意味があるのだとしたら、そんな濃縮な瞬間の積み重ねの先にある、濃縮な人生を生きることができたら、「これだったんだ」というものがわかるのかもしれません。