情報という洪水の中で、自らの「根」を見失っていないか?
効率と速度が支配する現代。私たちは、日々、膨大な情報の洪水に追われ、自らの内なる声に耳を澄ませる時間を、静かに失いつつあるのかもしれません。ふとした瞬間に、「自分は一体、何者なのだろうか?」という、根源的な問いが胸をよぎることはありませんか。
先日開催された探究講座「日本人の心のルーツを探る入口に立つ」は、まさに、そんな時代を生きる私たちが、一度立ち止まり、自らの足元にあるはずの、豊かで深い文化的・精神的な土壌へと、再び静かに根を下ろすための「実験の場」でした。
この講座は、一方的に知識を学ぶ「お勉強」の場ではありません。近代化の大きなうねりの中で、失われゆく日本の「魂の輪郭」を、その生涯をかけて描き留めようとした、小泉八雲、柳田国男、折口信夫、宮本常一という四人の先駆者たちの言葉を「問いのレンズ」として、参加者同士が対話を通して、自分自身の「心の輪郭」を掴み取ろうとする、生きた探究の「場(フィールド)」なのです。
今回は、その濃密な対話の中から立ち現れてきた、参加者の皆様の「生の声」と共に、この探究の旅が、私たちにどのような景色を見せてくれたのか、その一端をご報告したいと思います。
【第一の気づき】遠い「物語」が、生々しい「私ごと」へと反転する瞬間
参加前は、「少し難解な、昔の学者の本」という印象を持っていた方も少なくありませんでした。しかし、私たちがデザインした「場」の中で、深く、そして安全な対話が始まると、その印象は劇的な反転を遂げます。
「柳田国男の『遠野物語』に出てくる神隠しの話を、最初は単なる怖い昔話だと思っていました。でも、ある参加者の方が『小さい頃、暗くなるまで遊んでいると神隠しにあうよ、としつけのために言われた』と話すのを聞いて、ハッとしました。物語が、共同体の中で子供を守るための知恵として、生々しく機能していたんだと。文字の奥にある人々の体温や生活が見えた瞬間でした」
「小泉八雲が『日本の面影』で描いた、見返りを求めない『理想のおばあさん』。読みながら、不思議と、自分を育ててくれた祖母の姿が重なって…。他人のためだけに生きるなんて、今の合理的な価値観では到底計れません。でも、そういう無私の愛情が、この国には確かに存在したことを思い出して、胸が熱くなりました」
遠い過去の、書物の中の物語が、対話というプロセスを通して、自身の肉親の記憶や、幼い頃の身体的な感覚と、ふと結びつく。その「共鳴の瞬間」に、本は単なるインクの染みではなく、私たち自身の物語の源泉へと繋がる、生きた扉となるのです。
【第二の気づき】「常識」という名の地面が、静かに揺らぐ知的興奮
そして、この探究の面白さは、ノスタルジックな共感だけに留まりません。私たちが「当たり前」だと信じて疑わなかった日常が、全く違う風景に見えてくる。そんな、静かで、しかし確かな知的興奮に満ちています。
「宮本常一が記録した、村の会議『寄りあい』の話は衝撃でした。多数決という安易な方法に頼らず、全員が心の底から納得するまで、何日も何日も話し合う。一見すると非効率の極みですが、実は共同体の『和』という、目に見えない価値を最も大切にする、これ以上ないほど高度な合意形成のあり方だと感じました。普段、私たちが効率の名の下に行っている会社の会議は、一体何を守り、そして何を失っているのだろう、と…」
「圧巻だったのは、折口信夫の『まれびと』論です。ある参加者が『これは現代の“イノベーション”のモデルそのものではないか』と語ったことから、対話が大きく動きました。外部から訪れる異質な存在(まれびと)を、共同体が排除するのではなく、いかに『歓待』し、そのエネルギーを自分たちの変容の力に変えていくか…。古い神様の話が、そのまま最先端の経営論、あるいは組織論として聞こえてきました」
「小泉八雲が、神道には明確な教義という『実体がない』こと、その“空気”のような捉えどころのなさにこそ、日本人の精神的な強さがあると見抜いた視点には、本当に唸りました。『“言語化できない暗黙知”として共有される企業文化こそ、実は最強のブランド戦略かもしれない』という話にまで発展し、思考が大きく揺さぶられました」
一つのテキストが、参加者一人ひとりの多様な視点という光を浴びることで、何通りにも読み解かれ、思いもよらない化学反応を起こしていく。これこそ、私たちが信じる、対話の持つ創造的な力なのです。
見つけるのは「答え」ではなく、生きるための「問い」と「羅針盤」
この探究の旅が目指すのは、決して、「日本人の心とは、これだ」という、固定された一つの「答え」を見つけることではありません。むしろ、それは、私たち自身の内側で、今なお豊かに湧き出でる「問いの源泉」そのものを再発見し、その問いと共に生きていく覚悟を持つ、というプロセスなのです。
明日からの日常を、世界を、そして自分自身の人生を、今までとは少し違う、より深く、より豊かな解像度で見つめ直す。そのための、自分だけの心の羅針盤を手に入れること。それこそが、この講座が目指す、唯一のゴールです。
私たちは、なぜこの国の歴史や文化を学ぶのか。それは、過去という名の博物館に、美しい知識を陳列するためではありません。それは、深く、そして太い根を、自分自身の立つべき大地へと再び下ろし、未来という、まだ見ぬ嵐の中で、決して自分自身を見失うことなく、しなやかに立ち続けるためなのです。
探究に、終わりはありません。
あなたも、時を超えた言葉たちが眠る、静かな森へ。
自分自身の物語の源泉を探す旅に、ご一緒しませんか?


