
私たちは、言葉以前の“場”と対話している
「私たちは、目の前の相手と、言葉を交わしている」——誰もが、そう信じています。
しかし、もし、その常識が、私たちのコミュニケーションの本質を見えなくさせているとしたら、どうでしょうか。私は、これまでの探究を通して、むしろこう考えるようになりました。
私たちは相手と言葉を交わしているつもりで、実のところ、その二人を取り巻く「場(フィールド)」とこそ、対話しているのかもしれない、と。
なぜなら、私たちは皆、経験的に知っているはずです。
- 全く同じ言葉を発したとしても、話す場所や、そこにいるメンバー、その瞬間の「空気」が変われば、その言葉の受け取られ方、通じ方は、全く異なるものになること。
- そして、会話の中で生まれる、あの気まずい、あるいは意味深な「沈黙」という名の“空白”が、時に、どんな雄弁な言葉よりも、驚くほど雄弁に、その後の会話の方向性を決定づけてしまうことがあること。
ここに、私が長年、そしてこれからも探求し続けるであろう、「場の哲学」が立ち上がってきます。対話とは、決して「個人 × 個人」という二者間の閉じた関係性の中だけで完結するものではありません。それは、〈語り手 + 聞き手 + その二人を包む場〉という、三項関係の中で初めて、その本来の機能を果たし、生命を宿すのです。それが、私の揺るぎない立脚点です。
【第一章】「沈黙」という、もう一つの“発話”をデザインする
私が、これまで数多くの対話の場、特にセッションや探究講座の現場に立ち会う中で、何度も確信を深めてきたことがあります。それは、人の心を本当に動かすのは、流暢な言葉ではなく、むしろその合間に訪れる、深く、意味のある「沈黙」であるという事実です。
沈黙は、単なる“言葉の欠落”や“思考の停止”ではありません。それは、「もはや、これ以上、通常の言葉では語り得ないものの存在」を示唆し、その場の意味を深化させる、極めて高度な“メタ言語”なのです。
私が深く探求してきたセドナメソッドやオープンダイアローグといった、深いレベルでの自己変容を扱う「場」においても、参加者が言葉に詰まり、深く黙り込む、その瞬間にこそ、これまで凍りついていた感情の“解凍”が始まり、本質的な気づきが生まれることを、私は何度も目撃してきました。
だからこそ、私が「濃縮された対話」の場を設計する際には、必ず次の二つの要素を、その場のルールとして組み込みます。
- 沈黙を、決して「会話の失敗」や「気まずい欠落」と見なさない、という共通認識(ルール)を徹底すること。
- 沈黙の後に、誰もが安心して、再び対話へと戻ってくることができるような、場のリズムと安全性を、ファシリテーターが責任をもって担保すること。
ただこれだけのデザインがなされているだけで、「沈黙が怖い、避けるべきもの」でしかなかった場は、「沈黙が豊かに機能し、対話を深める」場へと、その性質を劇的に反転させるのです。
【第二章】主語を“私”から、“私たち”と“場”へと拡張する
20世紀の思想家マルティン・ブーバーは、人と人との本質的な関係性を「我‐汝(I–Thou)」という、一対一の直接的な対話モデルで捉えました。その洞察は、今なお色褪せない輝きを放っています。しかし、ビジネス、家庭、コミュニティといった、より複雑な力動が働く領域を横断してきた、私の現時点での結論はこうです。
I—Thou(我‐汝)では、まだ十分ではない。対話の視点を、〈We—Field〉(私たち‐場)へと拡張せよ、と。
ここで言う「We(私たち)」とは、単なる「私とあなた」の総和ではありません。それは、いま、この瞬間に、この場で対話することによって新たに立ち現れてくる、私たちという、常に揺れ動いている“複数主体の存在”そのものを指します。
そして「Field(場)」とは、単なる物理的な空間のことではありません。そこには、その場所に刻まれた歴史や、私たちが共有してきた過去の記憶、そして、言葉にはならない感情的な記憶といったものが、まるで“関係性の地層”のように、幾重にも折り重なって存在しています。
この〈We—Field〉の視点を対話に持ち込むために、私はしばしば、こんな「Weを感じる問い」を投げかけます。
- 「今、“私たち”は、一体どこで、どんな前提の上で、対話をしているのでしょうか?」
- 「今、この“私たち”の間に流れている、この沈黙や、この空気感は、一体何を守ろうとしているのでしょうか?」
この二つの問いを、対話の当事者たちが自分たちの言葉で言語化できたとき、その「場」は、ファシリテーターの介入を待たずして、自律的に、そして加速度的に、その深みを増していくのです。
【第三章】実験のすすめ:「会話についての会話」だけを、30分間続けてみる
もし、この「場の力」というものを、あなたも体感してみたいと思うなら。シンプルで、しかし極めてパワフルなワークを紹介しましょう。それは、特定のテーマを一切決めずに、30分間、「会話についての会話(メタトーク)」を、二人、あるいは数人のグループで行ってみる、という実験です。
- 「今、あなたのその言い方だと、私は少し急かされているような感じがするのですが、何か意図はありますか?」
- 「今、私は、あなたの話を遮って、自分の説明を急いでしまっている、という焦りを自分自身に感じています」
- 「なんだか、話が噛み合わない気がするのですが、もしかして私たちは、それぞれ違うゴールを想像しながら話しているのかもしれませんね」
このように、会話の「内容」そのものに脱線しそうになったら、即座にリセットし、あくまで「今、ここでの、私たちのやり取りのプロセス」だけに焦点を当て続けます。
はじめの10分間は、多くの人が戸惑い、空回りするかもしれません。しかし、それを超えたあたりから、不思議なことが起こります。これまで「言葉以前に、私たちの間に確かに流れていた、しかし誰もそれに気づいていなかった何か」が、徐々に露わになり始め、まるで淀んでいた水が澄み渡っていくように、その場が急速に“透明度”を増していく、という、非常にクリアな体験が訪れるのです。
濃縮された「場」こそが、最良のマーケティング装置である
そして、この「場の哲学」は、そのままビジネスの現場にも応用できると、私は確信しています。事実、私がこれまで見てきた中で、セールスの成績がなかなか上がらなかったり、チーム内の連携がうまくいかなかったりする組織ほど、この「メタの対話」、つまり「仕事のやり方について、話し合う話し合い」が、致命的に欠落しているケースがほとんどでした。
本当に「売り込まなくても、自然と売れていく」組織や個人は、商品やサービスの機能的価値を磨くだけでなく、顧客との間に生まれる「場の濃度」や「関係性の質」を、意識的に、そして緻密に設計しているのです。
だからこそ、私が提唱する「濃縮マーケティング」の要諦は、「誰に、何を売るか」という戦術論ではなく、「どのような場で、どのような関係性の中で、その価値は語られるべきか」という、より根源的な“場”のデザインにあるのです。
“話すべき内容”を必死で磨き上げる前に、まず、“その話し合い方そのものを、話し合う”という、メタな対話のプロセスを、あなたのチームや、あなたと顧客との間に組み込むこと。
それこそが、私が示す、これからの時代のマーケティング、そしてコミュニティ運営における、最も本質的な根本設計図です。