「本音」は、どこまで出せばいいのか? 〜魂の対話を支える、安心と“受け止める器”〜

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「本音で語り合う」ことへの、憧れと恐れ

このブログ記事を読んで、「自分も、あんな風に深く語り合える場に参加してみたい」と感じてくださった方も、きっと少なくないと思います。

しかし同時に、心のどこかで、こんな正直な疑問や、かすかな恐れが浮かび上がってきたのではないでしょうか。

「そもそも『本音』って、一体どこまで出していいのだろうか?」

「もし、自分のドロドロとした感情や、未整理な言葉をさらけ出してしまったら、その“場”の空気が壊れてしまったり、誰かを深く傷つけてしまったりしないだろうか?」

この、「本音で繋がりたい」という切実な願いと、「本音を出すことで関係性が壊れるかもしれない」という根源的な恐れとの間で揺れ動く感覚。それは、私たちが真の対話を求める上で、避けては通れないテーマです。

今回は、セミナーの場で実際に交わされた“本音の言葉”が、なぜ破壊ではなく、むしろ深い共鳴や変容を生み出すことができたのか。その背景にある構造について、私の視点から解剖してみたいと思います。

私たちが語るべき「本音」とは、“感情の暴露”ではない

まず、私が「本音で語る」というときに、それが何を指しているのかを明確にしておく必要があります。私が重視しているのは、「本音=その瞬間に湧き上がってきた、ありのままの感情を、無防備に、無分別に、相手にぶつけること」では決してない、ということです。

確かに、探究の場では、怒りや悲しみの涙が流れる場面もあります。しかし、それは対話の“目的”として意図されたものではなく、探求が深まった結果として、自然に“表出してきたもの”に過ぎません。

私が考える、対話における「本音」とは、むしろ「今、この瞬間に、自分自身の内側で起きている、まだ整理しきれていない思考や感情の動きに、勇気をもって気づき、それに誠実に“名前をつけようとする”営み」そのものです。

つまり、それは相手を攻撃したり、自分の感情を一方的に処理してもらったりするためのものではなく、あくまで“自分自身との深い対話”から始まる、極めて内省的なプロセスなのです。

【本音の条件】なぜ、あの「場」では、深い自己開示が可能だったのか?

ではなぜ、探究講座のような「場」では、普段は決して口にできないような、繊細で、時に痛みを伴う「本音」の開示が可能になるのでしょうか。それは、そこにいくつかの明確な「条件」が、意識的に設計され、守られているからです。

「何を語っても、否定されない」という、絶対的な心理的安全性が確保されているから

「こんなことを言ったら、馬鹿にされるのではないか」「未熟だと思われるのではないか」——そうした恐れが、私たちの口を重くします。しかし、探究の場では、どんな言葉も、どんな感情も、まずは「そう感じているんだね」と、ジャッジされることなく、ただ、ありのままに受け止められます。この「否定されないという確信」こそが、心の深い部分にある扉を開く、最初の鍵となります。

主語が常に「私」のままで語られる、という対話の作法があるから

私がファシリテーターとして実践するように、探究の場では、「あなたは〇〇すべきだ」「それは間違っている」といった、相手を主語にした断定や批判ではなく、「私は、その話を聞いて、こう感じました」「私の場合は、こうでした」といった、常に「私」を主語にした言葉で対話が紡がれていきます。「Youメッセージ」ではなく、「Iメッセージ」の応酬。このシンプルな作法が、対話を非難の応酬ではなく、自己開示の連鎖へと変え、場を安全に、そして深くしていくのです。

【本音の危うさ】それでもなお、“本音”が、時にナイフになることもある

しかし、正直に言わなければなりません。どれだけ安全な場であっても、「本音」の開示には、常に「危うさ」が伴います。

あるセミナーでも、ある参加者の方が、ご自身の家族に対して長年抱えてきた、深く、激しい「怒り」の感情を、初めて言葉にした瞬間がありました。その瞬間、場の空気は、確かに一瞬、緊張し、張り詰めました。彼の言葉は、それほどまでに生々しく、強いエネルギーを放っていたからです。

けれど、その張り詰めた沈黙の後、「私も、実は同じような怒りを親に対して感じていたことがある」と、別の参加者が、震える声で言葉を繋ぎました。その一言をきっかけに、場の空気は一変しました。個人の「怒り」の表明は、いつしか「人間が抱える、愛憎の普遍的な物語」へと昇華され、場にいた全員の心を、より深いレベルでの共感と共鳴で満たしていったのです。

本音は、時に鋭いナイフのように、他者や自分自身を傷つけることがあります。しかし、そのナイフは、深く研ぎ澄まされ、覚悟をもって使われるとき、人の心の膿を出し、癒しをもたらす「医療器具(メス)」にもなり得るのです。そして、そのナイフがどちらの役割を果たすかを決めるのは、語り手の意図だけでなく、それを受け止める聞き手側の「器」の存在、つまり、その場の受容性と成熟度に他なりません。それこそが、私が「共鳴の場づくり」と呼ぶものの、本質的な部分です。

あなたの内なる本音に、静かに触れるための3つの問い

もし、あなたも自分自身の「本音」に、安全な形で触れてみたいと感じるなら。まず、以下の問いを、一人きりになれる静かな時間で、自分自身に投げかけてみてください。紙に書き出すのも、心の中で呟くだけでも構いません。

  1. 最近、誰かに対して、あるいは自分自身に対して、本当は言いたかったけれど、飲み込んでしまった言葉は、どんな言葉ですか?
  2. その言葉を飲み込んだとき、あなたの身体は、どんな風に感じていましたか?(例:喉が詰まる、胸が重い、お腹が固くなるなど)
  3. もし、その飲み込んだ言葉の奥に、あなたが本当に大切にしたかった“願い”や“価値観”があるとしたら、それは何だったのでしょうか?

このプロセスは、他者を傷つけるための「暴露」ではなく、自分自身の内なる声と繋がり直すための、「誰かを傷つけない、誠実な本音」を言語化していくための、大切な第一歩です。

あなたの“言葉にならない本音”は、誰かの「救い」になるかもしれない

セミナーで、ある一人の参加者が、ぽつりと語ってくれた、決して完璧でも、特別でもない、しかし、ありのままの「素直な本音」。その一言が、それを聞いていた他の参加者の心の琴線に触れ、静かな涙を誘う場面があります。

その涙は、「あなたの話に感動しました」という涙ではありません。

それは、「ああ、自分だけじゃなかったんだ」という、深い安堵と、魂の解放からくる涙です。

自分の内側にある、まだ言葉にならない、曖昧で、未整理な気持ち。それを、勇気をもって差し出すこと。その「不完全な自己開示」こそが、他の誰かの心を照らし、その人が自分自身の本音と出会うための、かけがえのない「橋渡し」となることが多々あります。

だからこそ、あなたの、その“曖昧で、言葉にならない気持ち”にも、計り知れない価値があるのだと、私は確信しています。

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