なぜ「変わりたい」のに動けないのか? 〜意志ではなく“無意識の構造”という盲点と、変容への道筋〜

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■ はじめに:「あの時の気づきは、どこへ行ってしまったのだろう?」という徒労感

なにかしらのセミナーに参加して、あるいは日々の探求の中で何かしらの「気づき」を得た経験のある方の中には、こんな風に感じた方もいらっしゃるかもしれません。

「あの場の熱気の中では、確かに何かが変わったように感じた。参加者の皆さんの変容の物語にも、深く心を動かされた。でも、いざ日常に戻ってみると、自分はきっと、あんな風にはなれないのではないか…」

「その場では『変わろう』と強く思ったはずなのに、気づけばまた、いつもの思考や行動のパターンに引き戻されている自分に、がっかりしてしまう」

「一体なぜ、こんなにも強く“変わりたい”と願っているのに、私はなかなか変わることができないのだろうか…?」

この、切実で、時に痛みを伴う問い。それは、私自身がこれまで、何百人もの方々の「変容の現場」に立ち会い、そして自分自身の内面と向き合い続ける中で、繰り返し耳にし、また感じ続けてきたものです。

そして、その探求の果てに、おぼろげながら見えてきたことがあります。それは、なかなか変わることができない人たちに共通して存在する、ある“無意識の心の構造”と、そして、その構造に光を当て、変容を可能にするための、ある特定の「条件」の存在です。

■ “変われない”のではなく、心の奥底で“変わると困る”とブレーキをかけている自分

私たちはしばしば、頭(理性)では「変わりたい」「このままではいけない」と強く思っています。新しい知識を学び、目標を立て、行動計画を練る。しかし、それにもかかわらず、なぜか足が前に進まない。あるいは、進み始めてもすぐに元の場所に戻ってきてしまう。

そのとき、私たちの身体の奥深く、感情のさらに深層では、実は理性とは全く逆のベクトルが働いている可能性があります。それは、「今の状態から変わってしまったら、何かとても“困る”ことが起きるのではないか」という、無意識の、しかし極めて強力な抵抗感(ブレーキ)です。

例えば、

  • もし私が本当に変わってしまったら、これまで築いてきた大切な誰かとの関係性が、大きく変わってしまうかもしれない、あるいは壊れてしまうかもしれない、という恐れ。
  • 新しい自分になるということは、今の自分自身をどこかで否定し、過去の自分を切り捨てることになってしまうのではないか、という漠然とした怖れ。
  • 本当に新しい一歩を踏み出し、本気で何かに挑戦してしまったら、もう「うまくいかなくても仕方ない」という言い訳が許されなくなり、失敗した時のダメージが大きすぎるのではないか、という不安。

このように、“変化”という未知なるものに対する、私たちの内なる「防衛システム」が作動し、無意識のうちに「現状維持」を選び取ろうとする。この目に見えないブレーキが存在している限り、いくらアクセルを強く踏み込んでも、私たちの人生という車は、なかなかスムーズには前進しないのです。

■ 私の視点:「意志の力」だけで動こうとするから苦しくなる。“構造”への理解が不可欠

私は、この「変わりたいのに変われない」というジレンマを、個人の“意志”の強弱の問題としてだけ捉えることには、限界があると感じています。むしろ、多くの場合、それは「その人が無意識のうちに囚われてしまっている、心の“構造”の問題」なのだと考えています。

変化を妨げているのは、決して本人の怠慢や甘え、あるいは努力不足などではありません。それはむしろ、その人がこれまでの人生で、生き延びるために、あるいは自分自身を守るために、無意識のうちに築き上げてきた「過去の自分自身のあり方」「特定の人との慣れ親しんだ関係性」「繰り返されてきた思考や行動の習慣」といった、強固な“内的構造”を、今もなお必死で守ろうとしている、という心の自然な働きなのです。その、自分にとっては「当たり前」となり、時には「安全」だとすら感じられる内的構造の存在を無視して、「もっと頑張らなければ」「意志の力で変わらなければ」と自分を追い立てるのは、まるで“足に何十キロもの重りをつけたまま、全力疾走しようとする”ようなもの。それは、多大なエネルギーを消耗するだけで、本質的な前進には繋がりにくい、苦しい試みとなってしまうでしょう。

■ では、どうすればこの「変わらない構造」に、変化の風穴を開けることができるのか?

その答えは、実はとてもシンプルです。それは、「自分一人の視点(内的構造)から抜け出し、信頼できる“他者の視点”を、安全な形で取り入れること」に尽きると、私は考えています。

  • 自分一人では決して気づけなかった、長年の思考の癖や、無意識の思い込みを、信頼できる誰かが、愛をもって、しかし的確に指摘してくれる。
  • 自分と同じような痛みや葛藤を抱え、それを乗り越えようとしている人の、生々しい言葉や体験談に触れることで、自分自身の封印していた感情が揺さぶられ、共感と共にカタルシスが起きる。
  • 「ああ、それ、私もずっと感じていました」「私だけじゃなかったんだ」と、自分の内なる感覚を肯定し、分かち合ってくれる誰かが、確かにそこにいる、という安心感。

この、他者との間で生まれる“共鳴”という名の、魂の響き合いこそが、これまで盤石だと思われていた古い内的構造に、小さな、しかし確実な「ヒビ」を入れ、そこから新しい光が差し込み、内側からの変化を静かに、しかし力強く促していくのです。

私が、個別のセッションだけでなく、「ひとりではなく、“場”を通して変容を起こす」という、探究講座のようなコミュニティのあり方を何よりも大切にしているのは、まさにここにその理由があります。安全な「場」という器の中で、多様な他者の視点や経験が触媒となり、一人では決して辿り着けないような、深い自己理解と変容のプロセスが、自然と立ち上がってくるのです。

■ 結びに:「変われない私」を責める日々から、「自分を縛る構造を見つめ直す私」へ

もしあなたが今、何かを変えたいと願いながらも、その最初の一歩を踏み出せずにいたり、あるいは何度も同じ場所で立ち止まってしまったりしているとしたら——。

それは、決してあなたの意志が弱いからでも、あなたが劣っているからでもありません。もしかしたら、それはただ、あなたを無意識のうちに縛っている「心の構造」を見つめ直し、そこに新しい視点を取り入れる「タイミング」が来ている、というサインなのかもしれません。

私は、なかなか変われない人を、決して否定的な目で見ません。むしろ、「その葛藤や、もどかしさ、そして“変わりたい”という切実な願いの中にこそ、その人自身が持つ、真の変容への、かけがえのない種子が眠っている」と、心の底から確信しています。

その種子に、信頼できる他者の視点という名の水を注ぎ、共鳴という名の光を当てることで、あなたの内なる変容の物語が、静かに、そして美しく花開いていくと信じています。

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