なぜ、二人の問題に“第三者”を巻き込むのか? 〜「三角関係化のダンス」と、向き合うべき本当の痛み〜

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■ はじめに:「あの人がいないと、私たちはもうダメかもしれない」という幻想

「もう、あの人が間に入って仲裁してくれないと、私たち夫婦(あるいは親子、同僚)の関係は修復不可能だ」

「彼(彼女)という共通の話題(あるいは共通の敵)がいるからこそ、私たちはかろうじて繋がっていられるのかもしれない」

「私たちの関係がこんなにこじれてしまったのは、きっと、あの人のせいなんだと思う」

こうした言葉が、あなたの心や、あなたの周りの誰かの口から、ふと漏れることはないでしょうか。一見すると、それは特定の状況における、もっともな人間関係の悩みのように聞こえるかもしれません。

しかし、これらの言葉の裏には、本来は“私たち二人だけで、勇気をもって向き合うべきだったはずの課題や感情”を、無意識のうちに“第三の誰か、あるいは何か”を関係性の中に引き込むことで、その直接的な痛みを避け、一時的な安定や安心を得ようとする、根深い心の力動が隠されていることがあります。

私はこの、人間関係における「三角関係化のダンス」を、“直接向き合うことの痛みからの、巧妙な退避構造”として捉え、その深層にあるものに光を当てたいと考えています。

■ 三角関係化とは、「行き場を失った感情の、無意識のバイパス手術」

本来、私たちが直接向き合うべき相手に対して、自分の本当の感情(それは怒りかもしれませんし、悲しみ、不安、あるいは愛情や依存かもしれません)を、ストレートにぶつけることができない、あるいは、そうすることがあまりにも怖いと感じるとき。

私たちはしばしば、無意識のうちに、その行き場を失った感情のエネルギーを、別の誰かや何か——つまり“第三者”という名の“感情の避雷針”や“緩衝材”——へと向けてしまうことがあります。

  • 例えば、夫婦関係に深い亀裂や満たされない想いがあるとき、その直接的な対立を避けるために、どちらか一方(あるいは双方)が、子どもの問題行動や学業のことばかりに過剰に意識を集中させてしまう。子どもが、夫婦間の緊張を吸収する“緩衝材”の役割を(無意識に)担わされてしまうのです。
  • あるいは、職場で上司や同僚に対して抱いている直接的な不満や怒りを、本人に伝える代わりに、別の部署の同僚や、時には家族にまで持ち帰り、そこで“同盟者”を見つけては愚痴をこぼし、一時的な共感を得ることで溜飲を下げる。
  • 親子関係において、親が自分の人生の不満やパートナーへの満たされない想いを、子どもに過剰に期待したり、逆に子どもを自分の感情の捌け口にしたりする。子どもが、親の“感情的なパートナー”の役割を演じさせられてしまうこともあります。

この三角構造の最も厄介な点は、それが問題の“本当の発生源”から目を逸らしながらも、皮肉なことに関係性そのものは、一見すると「保たれている」かのように見えてしまうところにあるのです。しかし、それは根本的な解決からは程遠い、薄氷の上の安定に過ぎません。

■ なぜ、私たちは不健全な「三角構造」に、“安心”や“安定”を見出してしまうのか?

では、なぜ私たちは、本質的な解決には至らないと薄々気づきながらも、この「三角関係化」という構造に、ある種の“安心感”や“関係の安定”を見出し、それを無意識に選び続けてしまうのでしょうか。

それは、三角関係化という構造が、いわば「二者間で直接向き合うことによって生じるかもしれない、耐え難い感情的な負荷や葛藤を、第三の要素へと巧妙に分散させ、一時的に軽減する機能」を、持ってしまっているからだと考えられます。

  • 直接相手に本音を伝えてしまったら、この関係は修復不可能なまでに壊れてしまうかもしれない、という深い恐れ。
  • 自分の素直な感情や欲求を伝えても、きっと相手には受け止めてもらえないだろう、理解されないだろうという、過去の経験からくる深い諦め。
  • この問題の責任が自分にあると認めたくない、自分が「悪い役」にはなりたくない、という無意識の自己防衛。

こうした、様々な未処理の感情や恐れが複雑に絡み合ったとき、「問題を二人の間から、誰か(何か)別のところへ移すこと」で、あるいは「共通の心配事や敵を作ることで、一時的に手を取り合うこと」で、束の間の心の安定や、関係の継続という幻想を得ようとする——それこそが、三角関係化という“構造的な問題回避”の、本当の正体なのです。

■ 三角関係化の影に潜む、“未処理の怒り”、“満たされない愛情欲求”、そして“依存的な不安”

ここで私は、もしあなたが特定の人間関係において、常に誰か第三者の存在を必要としたり、二人の間の問題を別の何かのせいにしたりするパターンに気づいたなら、二つの重要な問いを、あなた自身の内側に向けてみることをお勧めします。

「あなたは、本当は、誰に対して、どんな言葉にならない感情(怒り、悲しみ、恐れ、願いなど)を、ずっと伝えられずに抱え続けているのでしょうか?」

「そして、もしその感情を、本来伝えるべき相手に正直に伝えてしまったとしたら、一体何を失うことを、心の底から恐れているのでしょうか?」

この、自分自身の内なる声と、その奥にある深い恐れに真摯に向き合うことなしに、私たちは、無意識のうちに第三者を巻き込み続ける「感情のバイパス手術」への依存から、なかなか自由になることはできません。

■ 「解決役」や「巻き込まれ役」は、時にその“役割”を強化し、固定化させてしまう

三角構造のもう一つの特徴的で、そしてしばしば悲劇的な側面は、その関係性の中に巻き込まれた第三者が、その“役割”を、あたかもそれが自分の本質であるかのように、無意識のうちに引き受け、そしてそれを強化していってしまうことです。

  • 親の不仲を敏感に察知し、常に「良い子」を演じ、両親の間の「潤滑油」や「かすがい」としての役割を、幼い頃から無意識に背負い続けてしまう子ども。
  • 職場で、対立する二人の同僚の間に入り、双方の言い分を聞き、常に「調整者」や「仲介者」として奔走し、心身ともに消耗してしまう人。
  • 友人の恋愛相談に親身に乗り続けるうちに、いつしかその友人の「感情のゴミ箱」のような役割を担わされ、自分自身の時間やエネルギーを奪われてしまう人。

そのようにして、それぞれの当事者が、その場その場で生き残るため、あるいは関係性を維持するために必要だと感じた“特定のキャラクター設定”を、まるで自分の本質であるかのように演じ続け、その結果、かえって自分自身の“本来の感情”や“本当に望む生き方”から、ますます遠ざかってしまうという皮肉な事態が起こりうるのです。

■ 三角関係化という名の迷路を解きほぐすには、“対話の軸”を、勇気をもって「二人の間」に戻すこと

では、この複雑に絡み合った三角構造の糸を解きほぐし、より健全で直接的な関係性へと移行していくためには、どうすれば良いのでしょうか。それは、必ずしも「関係を壊すこと」や「誰かを排除すること」を意味するのではありません。むしろ、「この関係性において、本当に向き合うべき本質は何か? 私たちの間に、本当に必要な対話は何なのか?」と、その原点に立ち返ることです。

  • 本当は、誰と、何について話し合うべきなのでしょうか?(多くの場合、それは巻き込んでいる第三者ではなく、元の二人の間にあるはずです)
  • どんな感情を、これまで飲み込まずに、正直に相手に伝えたいと願っていたのでしょうか?
  • 相手を変えようとしたり、自分の正しさを証明したりするのではなく、まず「自分自身の本音」に立ち、そこから誠実に対話を始める覚悟は、今の私にあるだろうか?

これらの問いに、勇気をもって向き合うこと。それが、変容への第一歩です。

■ 結びに:人は、“直接向き合えた関係”を通してしか、本当の意味では癒されず、成長しない

三角関係化という構造は、短期的には、関係性の完全な破綻を遅らせ、痛みを一時的に麻痺させてくれるかもしれません。しかし、その間接的な関わりの中では、決して「本物の信頼」や「深い心の繋がり」は育まれないのです。

私は、こう考えています。

「私たちは、痛みを伴うかもしれない直接的な対峙を避けることはできても、その回避の先で、魂が本当に癒されることはない。真の癒しや成長とは、現実から目をそらさず、たとえ怖くても“まっすぐに関係性を見つめる勇気”の先にしか、決して生まれてこないのだ」

あなたがいま築いている、あるいは悩んでいる大切な関係性には、一体、“何人分の、どんな種類の感情”が、複雑に絡まり合っているでしょうか?

その見えない糸を、一本一本、丁寧に手繰り寄せ、本来繋がるべき人との「直接の対話」へと意識を戻していくところから、あなたと、そしてあなたの大切な人との「本来あるべき二者関係」が、再び静かに、そして力強く立ち上がってくるのではないでしょうか。

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