なぜ「正しさ」をぶつけ合うと、心はすれ違うのか? 〜非難と自己正当化のループを断ち切るために〜

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■ はじめに:「また、このパターンか…」言い争いの奥にある、見えない脚本

「どうして、いつも私たちの会話は、同じような喧嘩になってしまうのだろう?」

「良かれと思って、自分の考えを伝えたつもりなのに、なぜか相手をさらに怒らせてしまった…」

「この関係、最近どこか息苦しくて、心からの対話ができていない気がする…」

恋人や夫婦の間で、あるいは親子、職場の同僚といった、私たちにとって身近で大切なはずの関係性の中で、なぜ私たちは、しばしば“同じようなパターン”の衝突を繰り返し、そのたびに同じような不快な感情を味わい、そして同じような後悔をなぞってしまうのでしょうか?

この根源的な問いは、単なるコミュニケーションスキルの問題として片付けられるものではなく、むしろ、“私たち一人ひとりという存在の、より深い心の構造”に、そして、知らず知らずのうちに私たちが演じてしまっている“無意識の人生脚本”に、深く関わる重要な探究テーマだと、私は考えています。

私はここで、まずこう問いかけてみたいのです。

その、相手を言い負かそうとする“「正しさ」の主張”は、本当に、お互いの理解を深め、関係性を豊かにするための“対話”のためにあるのでしょうか? それとも、心の奥底にある何かを守るための、無意識の“防衛反応”なのではないでしょうか?

■ 「正しさ」の主張の背後には、“否定されることへの深い恐れ”が潜んでいる

一方が「あなたのここが間違っている!」と非難の言葉を向けるとき、その言葉の奥には、実は「私のこの痛みを、あなたに分かってほしい」「私のこの気持ちを、受け止めてほしい」という、切実な願いが隠れていることが少なくありません。しかし、その表現方法が、相手への要求や、「あなたが悪いのだ」という“原因の押し付け”にすり替わってしまった瞬間、対話の扉は固く閉ざされてしまいます。

なぜなら、非難された側は、その言葉を「攻撃」として受け止め、瞬時に自己防衛の態勢に入るからです。

「いや、君だって完璧ではないだろう!」

「あの時の状況を考えれば、あれは仕方のないことだったんだ」

「そもそも、これはお互い様じゃないか!」

こうして、本来は共有されるべきだったはずの「痛み」の訴えは、いつの間にか「どちらの言い分がより“正しい”か」という、“論破の応酬”や“正当性の証明合戦”へと姿を変えてしまうのです。そして、私たちが「自分こそが正しいのだ」と、その“正しさ”を強く主張し、相手に認めさせようとしているまさにその瞬間、私たちはすでに、相手と心から“繋がり合うこと”を、心のどこかで諦めてしまっているのかもしれません。

■ 非難する人の心の奥にある、満たされない切実な想い

先日の探究講座の中で、ある参加者の方が、過去の人間関係における「非難と自己弁護」のパターンをロールプレイで演じてくださったときのことです。その方が「非難する役」を終えた後、その時の心の動きを、こんな風に言葉にしてくれました。

「相手がどんな返事をしてくるか、それを聞いた上で、もし言い訳がましいものだったら、もう完膚なきまでに叩きのめしてやろう、という準備が、自分の中に確かにありました…」

これは、単なる売り言葉に買い言葉の口論ではありません。その根底には、「もう二度と、あんな風に自分が軽んじられたり、否定されたりする痛みは味わいたくない」という、もしかしたら過去の別の人間関係で深く傷ついた経験からくる、未だ癒されぬ怒りや、自分を守るための過剰な防衛反応が隠されているのではないでしょうか。私はそれを、“未完の怒り”、あるいは“過去からの感情の再演”と呼んでいます。

■ 「正しさ」の鎧を手放すには、まず“未処理の感情”の存在に気づき、認めること

  • 本当は分かってほしかったのに、分かってもらえなかった、あの時の寂しさ。
  • 理不尽な扱いや言葉を受け、心の奥底で感じた、あの時の深い悲しみや怒り。
  • 自分の存在価値を否定されたかのように感じた、あの時の無力感や絶望感。

こうした、過去の体験の中で十分に感じ切ることや、健全に表現することが許されず、心の奥に“封印されてしまった感情”が癒されないままでいると、現在の、本来は何の関係もないはずの対話の場面が、その“過去の感情を再体験し、今度こそは違う結末を迎えたいと願う、無意識の再演の舞台”となってしまうことがあるのです。

「あの時、言えなかった怒りや悲しみが、全く別の相手に対して、今ここで爆発してしまう」という形で。

だからこそ、この「正しさの応酬」という不毛なダンスから抜け出すために本当に必要なのは、相手を打ち負かすための更なる正論や論理武装ではありません。それは、まず自分自身の内側にある、“この反応パターンを引き起こしている、本当の感情は何なのか?”という感情への自覚と、“私はなぜ、これほどまでに自分の正しさに固執してしまうのだろうか?”という、自己との誠実な対話なのです。

■ 相手を論破することで、あなたは一体、何を得ようとしているのか?

「正しさ」を巡る戦いに囚われてしまうとき、私はいつも、自分自身に、そして探究の場の仲間たちに、こう問いかけます。

「あなたは、この議論において、本当に“勝ちたい”のでしょうか? それとも、心の底では、ただ“わかってもらいたい”と願っているだけなのでしょうか?」

この問いに、嘘偽りなく正直に向き合ってみると、私たちはしばしば、自分が「正しさの証明」という名の戦いによって、必死で得ようとしていたものの正体が、実は、相手からの評価や勝利などではなく、もっと根源的な“心の安心感”であったり、“ありのままの自分を認めてほしい、愛されたいという切実な願い”であったりすることに、気づかされるのです。

■ 結びに:正しさという名の武器を置いたとき、関係性は再び“心からの対話”へと還る

「非難」と「自己正当化」という、痛みを伴うこの感情のダンスを終わらせるために必要なのは、「勝つ」ことでもなければ、かといって一方的に「折れる」ことでもありません。

それは、

「私は、今、あなたのあの言葉を聞いて、こんな風に感じているんだ」

「それは、もしかしたら、過去にあったこういう経験と結びついて、私の中でこんな意味を持っているからなのかもしれない」

このように、“相手を非難し、自分の正しさを証明するための言葉”を、“自分自身の内側で起きていること、感じていることを、ただ誠実に伝えるための言葉”へと、意識的に変えていく、という勇気ある試みです。

その、評価や判断を手放した、ありのままの自己開示から、対立ではなく共感へ、論破ではなく共鳴へと向かう、全く新しい関係性のリズムが、静かに、しかし確かに始まっていくのではないでしょうか。

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