
■ はじめに:「わかり合いたい」という願いが、なぜかすれ違う瞬間
「もっと、心からわかり合いたい」
「ただ、安心してこの関係性の中にいたいだけなのに…」
そう願っているはずなのに、なぜか相手との間に距離が広がっていくように感じたり、あるいは、良かれと思ってしたことが、かえって相手を追い詰めてしまったり。そんな、やるせない“すれ違い”を、あなたは大切な人との間で経験したことはないでしょうか。
あるいは逆に——
「ただ、今は一人になって、自分の心と向き合いたいだけなのに」
「責められているように感じて、どうしてもその場から逃げ出したくなってしまう」
相手が近づいてこようとすればするほど、息苦しさを感じ、思わず距離を取ってしまう。
このような、一方が近づき、もう一方が遠ざかろうとする、まるで磁石の同じ極同士が反発し合うかのような関係性のパターンは、恋人や夫婦の間だけでなく、親子、友人、職場の人間関係など、私たちの身近なところで、実は頻繁に繰り返されています。
これは、お互いの「アタッチメント(愛着)のスタイル」が、不安やストレス状況下で無意識に衝突し合い、“安心感を求める行動”が、皮肉にもさらなる不安を生み出してしまうという、根深い力動と言えます。
■ 「追跡と逃避のダンス」は、“安心の求め方”のズレから生まれる
この、一方が関係性の中の不安を解消しようと相手に積極的に関わりを求め(これを“追跡者”と呼びます)、もう一方がそのプレッシャーや感情的な近さから逃れようと距離を取る(これを“逃避者”と呼びます)という相互作用のパターン。これは、人間関係における代表的な「感情のダンス」の一つです。
- 追う人(追跡者)は、相手との繋がりや関与を強く求め、「もっと話してほしい」「私の気持ちを聞いてほしい」「私たち、大丈夫だよね?」と、言葉や行動で相手に働きかけます。
- 逃げる人(逃避者)は、相手からの強い働きかけを、息苦しさやコントロールとして感じやすく、「今はそっとしておいてほしい」「一人になる時間が必要だ」「そんなに詰め寄らないでほしい」と、心理的・物理的な距離を取ろうとします。
重要なのは、このダンスを踊っている二人は、どちらも本心から“関係を壊したい”と願っているわけではない、ということです。むしろ、その行動の根底には、多くの場合、「この関係性の中で、安心して自分自身でいたい」という、切実で共通した願いが、ただ異なる形で表現されているだけなのです。
■ 「安心」への道筋が違うだけで、お互いが“脅威”に見えてしまうパラドックス
しかし、その「安心」を得るための戦略が正反対であるために、悲劇的なすれ違いが生まれます。
- 追う人にとっては、相手が黙り込んだり、距離を取ったりする行動は、「私への無関心」「拒絶」「関係の終わり」といった、最も恐れている事態の兆候に見えてしまいます。だからこそ、さらに強く相手に関わろうとし、安心感を得ようとします。
- 一方、逃げる人にとっては、相手が感情的に詰め寄ってきたり、説明を求めてきたりする行動は、「自分の領域への侵入」「コントロールされることへの脅威」「感情の洪水に飲み込まれる恐怖」として感じられます。だからこそ、さらに距離を取り、自分の安全地帯を守ろうとします。
このように、お互いが自分自身の「安心」を守ろうとすればするほど、相手にとってはそれが「脅威」となり、結果として、二人の間の溝はますます深まっていくのです。どちらも悪意があるわけではないのに、お互いが相手を“加害者”や“問題の原因”として捉えがちになります。
ここで、私はいつも自問する、そして探究講座でも問いかけることがあります。
「いま、あなたは、“相手の反応そのもの”に、ただ反射的に反応してしまってはいませんか? それとも、その奥にある、あなた自身の“内なる感情や、満たされない願い”に、深く気づけていますか?」
■ ダンスのステップを変える第一歩は、「自分の内なる脚本」に光を当てること
この「追跡と逃避」のダンスが、特定の相手との間で執拗に繰り返される背景には、多くの場合、私たち一人ひとりが幼少期に、親や養育者との間で経験した“安心と不安の記憶”や、そこで身につけた“アタッチメントのパターン”が、深く関係しています。
- 例えば、幼い頃、自分の気持ちや要求にすぐには応えてもらえなかったり、不安定な養育環境の中で見捨てられるような感覚を繰り返し経験したりした人は、大人になってからも、他者からの些細な無反応や距離感に対して、「見捨てられるのではないか」という「見捨てられ不安」に人一倍敏感になり、相手を過剰に追いかける「追跡者」の役割を演じやすくなるかもしれません。
- 逆に、過干渉な親や、感情の起伏が激しい養育者のもとで、自分の感情や欲求を表現することが許されず、常に息苦しさや飲み込まれるような感覚を経験してきた人は、他者との親密な関係や感情的な近さに対して、「また自由を奪われるのではないか」という「飲み込まれることへの恐れ」を抱き、距離を取ることで自分を守ろうとする「逃避者」の役割を演じやすくなるかもしれません。
これらの、過去の経験に基づいて形成された“未処理の感情や、無意識の思い込み(人生脚本)”が、現在のパートナーシップという、最も親密で、それゆえに最も過去の傷が刺激されやすい関係性の中で、まるで自動再生のように再演されてしまうのです。
■ 「わかってほしい」と願う前に、「自分が何をわかってほしいのか」を、まず自分が理解することから
- 追う人が、相手に対して「もっと私を見て、もっと近づいて」と必死に願うのは、その根底に「私を一人にしないで、この不安な気持ちのまま放っておかないで」という、内なる子どものような叫びが隠れているのかもしれません。
- 逃げる人が、「今は距離を取りたい、一人にしてほしい」と切実に感じるのは、「このままでは、あなたの強い感情や要求に、自分自身が押しつぶされてしまいそうで、自分を守りきれない」という、これまた切実なSOSのサインなのかもしれません。
ここで、私が探究のプロセスを通して、一つの重要な転換点としてお伝えしたいのは、「相手に自分の気持ちをわかってもらおう」と必死になる前に、まず、「自分自身が、一体“何を、どのようにわかってほしいと願っているのか”その内なる声に、深く耳を澄まし、理解する」ということです。
自分の内側で何が起きているのか、どんな感情が生まれ、どんなニーズが満たされていないのか。それに気づき、言語化し、自分自身でそれを受け止めること。これが、無意識の感情のダンスの“ステップを、意識的に変える”ための、何よりも大切な最初の一歩となるのです。
■ 結びに:近づこうとするほど離れてしまうとき、必要なのは“相手を変える”ことではなく、“自分との距離感を問い直す”こと
この、時に苦しい「追跡と逃避のダンス」を終わらせるために本当に必要なのは、
“相手の反応を変えさせよう”と、さらに強く働きかけたり、逆に完全に諦めてしまったりすることではありません。
むしろ、“自分自身が、今、どのような内的な動機(不安、恐れ、あるいは純粋な願い)から、その行動(追跡あるいは逃避)を選び取っているのか”に、まず静かに気づくこと。
そして、ほんの少しだけ立ち止まって、自分自身の心に、こう問いかけてみてください。
「いま私が、この関係性の中で本当に求めているのは、相手からの特定の“反応”や“理解”なのだろうか? それとも、まず私自身が感じるべき“内なる安心感”なのだろうか?」この、自分自身への深い問いかけから始まる、自己理解と関係性の再編集のプロセスが、追いかけるでもなく、逃げるでもない、お互いの存在を尊重し合いながら“心地よい距離感で、共に在る”という、全く新しい、創造的な振り付けを、あなたの人生という舞台に創り出してくれるはずです。