【2025年5月探究講座】なぜ、私たちは“同じすれ違い”を繰り返すのか? 〜無意識の「感情のダンス」〜

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■ はじめに:「良かれと思ったのに…」その違和感の奥にあるもの

「どうして、あの人とはいつも同じようなことで心が通わないのだろう?」

「こんなにも相手を大切に思っているのに、なぜかふとした瞬間にすれ違い、傷つけ合ってしまうのだろうか?」

「家族というかけがえのない存在に対して、良かれと思ってしたことが、なぜか相手を追い詰めたり、重荷になったりすることがあるのだろうか?」

「職場の特定の人とは、どうしていつも微妙な緊張感が漂い、建設的な対話が難しいのだろう?」

もしあなたが、パートナーシップに限らず、親子、長年の友人、あるいは日々の仕事で顔を合わせる同僚といった、人生における様々な大切な繋がりにおいて、このような解けない問いや、繰り返される息苦しさ、あるいは「また、このパターンか…」というデジャヴにも似た感覚を、心のどこかで抱えているとしたら。それは決して、あなただけが経験する特殊な悩みではありません。

むしろ、多くの人々が、言葉にならない葛藤や、目には見えない関係性の力動の中で、知らず知らずのうちに、同じような「心のダンス」を、様々な相手と、様々な場面で踊り続けている可能性があります。

私たちはしばしば、表面的な「言葉」のやり取りや、目に見える「行動」だけで、相手を理解しようとし、また自分を理解してもらおうとします。しかし、その言葉や行動の奥深くには、もっと複雑で、時に私たち自身ですら明確には気づいていない、パワフルな感情や欲求、そして過去の経験から無意識のうちに学習し、内面化してきた思考や行動のプログラム(脚本)が渦巻いています。そして、私たちが人間関係の中で本当に踊らされているのは、その場限りの言葉そのものではなく、実は、その目に見えない「感情のパターン」という名の、深く身体に刻まれた振り付けである可能性が高いのです。

■ 無意識に演じてしまう、人間関係の「感情のダンス」

先日の探究講座では、こうした人間関係のすれ違いを、まさにこの「感情のダンス」という視点から捉え直し、その構造を深く見つめていくワークを行いました。この「ダンス」とは、特定の関係性の中で、まるで予め振り付けが決まっているかのように、無意識に繰り返されてしまう、“お互いを巻き込みながら、特定の感情的結末へと向かって強化されていく、一連の反応のパターン”のことです。

講座の中で扱った事例として、日常によく見られる「ダンス」には、こんなものがあります。

  • 「追跡と逃避」のダンス: 一方が関係性への不安や繋がりを求める気持ちから相手に近づき、言葉や関心を求めれば求めるほど、もう一方は息苦しさやプレッシャーを感じて心理的に(あるいは物理的に)距離を取り、さらに不安になった最初の人が、より強く相手を追いかけてしまう…という、終わりのない鬼ごっこのようなループ。
  • 「非難と自己防衛」のダンス: 一方が相手の行動や在り方に対して「あなたが悪い」「あなたのせいだ」と非難の言葉を向けた瞬間、相手は自分自身を守るために「でも、だって」「そんなつもりじゃなかった」と“反論”や“言い訳”を始め、本来話し合うべきだった問題の核心はどこかへ行き、いつの間にか“どちらが正しいか、どちらが悪いか”という不毛な正しさの応酬へとすり替わってしまう。
  • 「支配と服従」のダンス: 関係性の中で、一方が無意識に(あるいは意識的に)主導権を握り、自分の価値観ややり方を相手に押し付けようとし、もう一方が、波風を立てることを恐れたり、相手の機嫌を損ねることを避けたりするために、自分の本音や欲求を抑圧し、その支配的な力に従ってしまう。このダンスが続くと、静かに、しかし確実に崩れていくのは、従う側の“自己感覚”や“主体性”そのものです。
  • 「お互いに距離を取る」のダンス: 表面的には大きな衝突や感情的なぶつかり合いはない。しかし、お互いに本音を語り合うことを避け、当たり障りのない会話に終始し、深いレベルでの心の響き合いが失われている状態。この“何も起こらない穏やかな日常”という名の静寂の中に、関係性の本質的な終わりが、ゆっくりと、しかし確実に忍び寄ってくる。

これらの関係性の振り付けは、私たちが意識的に「よし、このダンスを踊ろう」と選んでいるわけではありません。そうではなく、「なぜかは分からないけれど、気づいたらまた、このいつものパターンを相手と踊ってしまっていた」というものなのです。

■ 問題は相手にではなく、私たちの内なる「人生脚本」に

探究講座の中で、「非難と自己防衛」のダンスについて深く見つめていたある参加者の方が、ハッとした表情でこう語ってくれました。

「相手が言い訳がましい返事をしてきたら、その瞬間に、もう相手を徹底的に論破し、叩きのめすための次の言葉を、私は無意識のうちに準備していました…」

そこにあるのは、冷静で建設的な話し合いへの意欲ではなく、むしろ、相手を打ち負かし、“感情的な勝利を得ることで、一時的に自分自身の自我の安定を保とうとする”、根深い心理構造です。

また、「支配と服従」のダンスのパターンを振り返っていた別の参加者からは、「これまで、自分は一方的に支配されている“被害者”だと思っていたけれど、もしかしたら、“服従する側の私もまた、無意識のうちにその不健全な構造を維持することに、何らかの形で加担していた”のかもしれない」という、衝撃的とも言える気づきが共有されました。

これらの気づきが指し示しているのは、人間関係で繰り返される問題の根源は、必ずしも「相手の性格が悪いから」とか「状況が恵まれないから」といった、外的な要因だけに求められるものではない、ということです。むしろ、私たち自身の内側にある、幼い頃に生き延びるために無意識のうちに身につけてしまった「人生脚本(自分自身や世界に対する、根源的な思い込みや信念の体系)」や、本物の感情を感じる代わりに使ってしまう「ラケット感情(代用感情)」が、現在の人間関係のパターンを、見えない形で支配し続けているのかもしれないのです。

■ 本質的な問い:「私は何を信じ、何を恐れて、このダンスを続けているのだろうか?」

関係性の中で、同じような痛みを何度も繰り返し経験するとき。それは、目の前の相手の言動が、直接的な原因なのではありません。私たちの内側にある、まだ癒されていない“未完の問い”や、幼い頃からずっと満たされることのなかった“深い欲求”、そして、感じてはいけないと自分自身に禁じてきた結果、別の形で歪んで表現されてしまうラケット感情が、外からの些細な刺激をきっかけにして、まるで暴れ出しているだけなのかもしれないのです。

だからこそ私は、こうしたパターンに気づいたとき、まず自分自身にこう問いかけることを大切にしています。

「この、いつものパターンを繰り返すことで、私は一体、何を守ろうとしているのだろうか? あるいは、何を無意識のうちに得ようとしているのだろうか?」

「そして、その根底には、どんな“思い込み(人生脚本)”や“感じたくない本物の感情”が隠れているのだろうか?」

■ 目の前の相手は、“敵”ではなく、自分を映し出す“鏡”

私たちにとって最も身近で、最も感情を揺さぶられる他者とは、実は、あなたの“まだ解決されていない、古い人生脚本”や“繰り返される感情のパターン”を、最も鮮明に映し出してくれる、かけがえのない存在なのかもしれません。

彼らは、あなたを意図的に傷つけようとしたり、壊そうとしたりしているのではない。むしろ、あなた自身がまだ気づかずに心の奥底に抱えている“過去からの痛み”や、無意識のうちに繰り返してしまっている“不自由な選択のパターン”を、その関わりを通して、まるで鏡のように顕在化させ、気づかせてくれようとしているのかもしれないのです。

だからこそ、私は繰り返しこうお伝えしています。

■ 結びに:ダンスのステップを、ほんの少しだけ、意識的に変えてみる勇気

あなたが今、特定の誰かとの関係性の中で、無意識のうちに繰り返している“感情のダンス”は、一度や二度ではなく、もしかしたら、あなたの人生の中で、形を変え品を変え、長年にわたって踊られ続けてきたものかもしれません。

しかし、どれほど深く身体に染み付いた振り付けであっても、それに「気づき」、そして「選び直す」ことは、いつからでも可能なのです。

そのために必要なのは、相手を変えることでも、相手と戦うことでもありません。

まず、「この、いつもの苦しいダンスを、無意識のうちに踊り続けてきた私自身に、深い共感と慈しみをもって、優しく問いかけること」。

そして、ほんの少しだけでいい。これまでの自動的な反応とは違う、新しいステップ、新しい言葉、新しい関わり方を、意識的に試してみる、ささやかな「勇気」。

そこから、あなたの人間関係という舞台に、全く新しい音楽が流れ始め、これまで見たこともないような、新しい風景が、静かに、しかし確実に立ち現れてくるはずです。

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