
■ はじめに:「自分を肯定しなきゃ」という呪縛の、その先へ
「もっとポジティブにならなければ」
「ありのままの自分を好きにならなければ」
「私は大丈夫だ、と心から信じなければ」
——そう自分に言い聞かせようとすればするほど、かえって心が重くなり、息苦しさを感じてしまう。鏡の前でどんなに肯定的な言葉を唱えてみても、どこか空々しく響き、内なる声は「本当にそう思っているのか?」と冷ややかに囁きかけてくる…。
この、「自分を肯定しよう」とすればするほど、かえって苦しくなるという、一見矛盾したような感覚。あなたにも、一度はぶつかったことのある壁ではないでしょうか。
私はここで、あえてこう問いかけてみたいのです。
「私たちが本当に必要としているのは、無理やりな“肯定”なのでしょうか? それとも、もっと別の何か、例えば“今の自分との深い和解”なのではないでしょうか?」と。
■ 「自己肯定」という名の“感情の押し込み”が、本音の声をかき消してしまう
私たちが「自分を肯定しよう」と意識的に努力するとき、そこにはしばしば、“今、ここに確かに存在している、ありのままの感情や本音”に、無意識のうちに耳をふさぎ、それらを「良くないもの」「未熟なもの」として脇に押しやろうとする心の動きが潜んでいるように思います。
本当は、心の奥底では深く落ち込んでいるのかもしれない。
誰かに対して、あるいは自分自身に対して、激しいイライラを感じているのかもしれない。
何もかもが億劫で、ただ静かに横になっていたいだけなのかもしれない。
しかし、そうしたネガティブに感じられる感情や状態を、「こんな自分ではダメだ」「これでは人から認められない」と無意識に否定し、それらを隠蔽するかのようにして、“理想とされる、前向きで、肯定的な自分”であろうとする、ある種の「努力」を始めてしまう。
その結果、皮肉なことに、「今のありのままの私」と「そうあらねばならない、理想の私」との間に、より深い“ズレ”や乖離が生まれてしまいます。そして、そのズレこそが、新たな苦しみの源泉となるのです。
■ 私の視点:「肯定」よりも、まず「今の自分に、ただ正直であること」
私が、これまでの探求や実践を通して至った、「自己肯定」というものに対する現時点での定義は、こうです。
「自己肯定とは、ネガティブな感情をポジティブな感情へと無理に“上書きすること”では決してなく、むしろ、どのような感情であれ、今この瞬間に自分の中に湧き上がってきた感情に対して、どこまでも“正直であり、誠実であること”だ」
深く落ち込んでいても、「ああ、私は今、こんなにも落ち込んでいるのだな」と、その感情の存在を、ただ静かに認めることができるか?
強い怒りを感じていても、「私は今、確かに怒っている」と、その熱量を否定せずに感じ切ることができるか?
言いようのない不安に包まれていても、「その不安を抱えている、今のこの自分自身と、それでもなお繋がり続けていられるか?」
つまり、無理に「肯定」しようとするのではなく、まず「否定しない」こと。
無理やり「ポジティブ」な状態に変えようとするのではなく、今ここにある「ネガティブ」にも感じられる感情や状態に対して、ただ正直であること。嘘をつかないこと。
これこそが、私が考える、自分自身との“本質的で、信頼に足る関係性”を育むための、最も大切な土台なのです。
■ 無理な肯定が、心の奥に「もう一人の、冷笑的な否定者」を生み出す
「私は大丈夫、きっとうまくいく」
「私には、無限の価値がある」
「私は、誰からも愛される存在だ」
こうした肯定的な言葉を自分自身に繰り返し語りかけることは、ある種の有効なセルフケアとなり得るでしょう。しかし、もしその言葉が、今のあなたの内なる実感や、心の奥底にある本音と、大きくかけ離れているとしたら。
むしろ、あなたの心の中からは、こんな声が聞こえてくるかもしれません。
「本当は、心の底からそう思ってはいないくせに」
「どうせそんなのは、口先だけの気休めでしょ?」
「もし本当にそうなら、どうして今、こんなにも不安で、苦しいんだよ」
この、あなた自身の肯定的な言葉を冷ややかに見つめ、否定してくる“もう一人の自分(内なる否定者)”は、あなたが「偽りの肯定」によって、今のありのままの自分から目をそらそうとした瞬間にこそ、その存在を強く主張し始めるのです。それは、本音の自分からの「本当にそれでいいのか?」という、切実な問いかけでもあるのです。
■ 「本音に寄り添う」丁寧なプロセスが、結果として、静かな“肯定感”へと繋がっていく
私の言葉で言い換えると、こうなります。
「自己肯定感とは、目標として設定し、努力して“作り出す”ものではなく、むしろ、自分自身の内なる声や感情に正直に寄り添い続ける、その丁寧なプロセスの先に、ある日ふと、副産物のようにして、静かに訪れるもの」
- 今、自分が本当に何を感じているのか(本音)に、正直になる。
- 理想の自分と、現実の自分の間にある「ズレ」に、勇気をもって気づく。
- そして、どんな感情を抱き、どんな状態にある自分であっても、その存在をまず「否定しない」。
この、一見地味で、時に痛みを伴うかもしれないプロセスを、日々丁寧に、誠実に積み重ねていった先にこそ、「ああ、私は、このままで、ここにいていいんだ」と、心の底から自然に思えるような、穏やかで、揺るぎない感覚が、静かに育まれていくのではないでしょうか。
■ 結びに:「肯定しようとしない」勇気が、最も深く、本当の自分を肯定する道
「自己肯定感」という言葉の響きに、私たちはいつしか囚われ、それを何か達成すべき「理想の状態」として、外側から自分に課してしまっていたのではないでしょうか。
しかし、本当の意味で自己肯定感を取り戻す旅路とは、“立派な、あるいは理想的な自分”を、無理やり演じ続けることではありません。
それはむしろ、“そうした役割や演技を、一旦手放してみることを自分に許したとき”に、まるで固く閉ざされた蕾が開くように、あなたの内側から、静かに、そして自然に芽吹いてくる感覚なのです。
だから、今日、もしあなたが無理に自分を肯定しようとして苦しくなっているのなら。一度、その努力を手放してみませんか。
もし、あなたが今、深く落ち込んでいるのなら——
まず、その心に寄り添い、ただ、こう呟いてみてください。
「私は、いま、落ち込んでいる。それでいいんだ」と。
その、ありのままの自分への、最も正直で、最も優しい一言こそが、自己肯定感という長い旅路の、かけがえのない“最初の、そして最も本質的なかたち”に違いないのです。