「自己肯定感が低い」の正体とは? 〜感情ではなく、“自分との関係性の構造”として捉え直す〜

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■ はじめに:「自信がない私」と、「自己肯定感」という言葉の罠

「何かがうまくいっても、『これは、たまたま運が良かっただけだ』と素直に喜べない」

「人から褒められても、どこか疑ってしまい、心から受け取ることができない」

「一度失敗すると、すぐに『やっぱり自分はダメな人間なんだ』と、深く落ち込んでしまう」

こうした感覚に、長年、あるいはふとした瞬間に、思い当たるという方も少なくないのではないでしょうか。「自信が持てない」「自分自身をなかなか信じることができない」——そして、私たちはしばしば、その状態を指して、「私は自己肯定感が低いからだ」と、自分自身を分析し、結論づけてしまいがちです。それは一見、的を射た自己分析のように思えるかもしれません。

しかし、私はここで、少し立ち止まって問い直してみたいのです。

「私たちが言う“自己肯定感”とは、そもそも一体何なのでしょうか? それは、単なる“感情”や“気分の状態”の問題なのでしょうか? それとも、もっと根源的な、私たちと自分自身との“関係性の構造”に関わる問題なのではないでしょうか?」

■ 「自己肯定感」の正体は、感情ではなく、“自己との関係性のあり方”

一般的に「自己肯定感」というと、「常にポジティブな気分でいること」「自分に対して肯定的な感情を持つこと」とイコールで結びつけられがちです。しかし、私たちが実際に経験する心の現実は、もう少し複雑ではないでしょうか。

  • 例えば、何かで深く落ち込んで、悲しみや無力感に包まれているときでさえ、心のどこかで「それでも、自分は大丈夫だ」と、静かに自分を信じられる瞬間がある。
  • あるいは、客観的な状況がどんなに悪く、困難に満ちていたとしても、「私は、この状況の中で、今の私として最善を尽くしている」と、不思議と心が安定している瞬間がある。

つまり、本当の意味での自己肯定感とは、「その瞬間に、どのような感情を抱いているか」という表面的な気分によって左右されるものではなく、むしろ「その感情を抱いた自分自身に対して、普段からどのような眼差しを向け、どのように接しているか」という、より深層にある“自己との関係性の構造”の問題なのではないか、と私は考えています。

■ 自己否定とは、「今のありのままの自分」ではなく、「過去に学習した“役割”としての自分」の再演

では、私たちが「自己肯定感が低い」と感じ、自分を否定してしまうとき、私たちの内側では一体何が起きているのでしょうか。

私の視点から見ると、それは多くの場合、「“いま、ここにいる、ありのままの自分”」そのものに対してではなく、むしろ「過去の経験の中で、他者から評価されたり、期待されたりした“特定の自分の姿や役割”」に、無意識のうちに自分自身を重ね合わせ、その基準に従って「今の自分はOKか、NGか」を自動的に判定してしまっている状態、と言えるかもしれません。

例えば、

  • 親から無意識に求められ、演じ続けてきた「手のかからない、聞き分けの良い子」という姿。
  • 学校というシステムの中で、常に「正解を出し、優秀である生徒」という役割。
  • あるいは、SNSや職場といった社会的な場で、暗黙のうちに求められる「期待に応え、周囲から認められる自分」というペルソナ。

こうした、過去に身につけた「こうあるべき自分」という“内なる理想像”や“刷り込まれた役割期待”に照らし合わせて、「今の私は、その基準を満たしているだろうか?」と、常に自分自身を値踏みし、裁いてしまう。その無意識の「クセ」こそが、自己否定感の温床となっているのではないでしょうか。

■ 「自己肯定感を高めよう」とすればするほど、根本的なズレが深まる理由

そして、この「自己否定の構造」に気づかないまま、ただ表面的なテクニックで「自己肯定感を高めよう」と試みると、かえって苦しさが増してしまうことがあります。

よく耳にするアプローチとして、こんなものがあります。

「もっと自分を褒めてあげましょう」

「毎日、ポジティブなアファメーション(肯定的自己暗示)を唱えましょう」

「ありのままの自分を、無条件に愛しましょう」

もちろん、これらのアプローチが、ある局面では有効に機能することもあるでしょう。しかし、私なりに捉え直すならば、それはまるで、「根本的にズレてしまった土台(自己否定の構造)の上に、無理やり“肯定”という名の美しい装飾を積み上げようとしている」ようなものに見えます。

土台そのものが不安定で、過去の脚本に無意識に縛られている限り、いくら表面をポジティブな言葉で塗り固めようとしても、根底にある揺らぎは消えず、むしろ「こんなに頑張っているのに、なぜ変われないのだろう」という新たな自己否定感を生み出してしまう危険性すらあるのです。

■ 自己肯定感の本質は、「自分にYESと言う」こと以上に、「“今の自分”とズレていない」という手応え

では、どうすれば、この自己否定の構造から自由になり、より本質的な自己肯定感を育んでいくことができるのでしょうか。

私が探究を通して至ったのは、自己肯定感とは、必ずしも「常に自分に対してYESと言い続けるポジティブな感覚」だけを指すのではない、ということです。むしろ、それは、「今の自分が感じていること、考えていること、そして選ぼうとしていることが、自分自身の内なる本質と“ズレていない”という、静かで確かな手応え」に近いものなのではないか、と感じています。

  • たとえ感情が乱れ、心が不安定になっていたとしても、「それでも、この感情を感じている自分は、確かにここに存在して大丈夫だ」と、存在そのものを肯定できる感覚。
  • 先行きが見えない不安の中にいても、「この不安を抱えながらも、一歩を踏み出そうとしている自分を、私は信じることができる」という、プロセスへの信頼。
  • 周囲からの評価や承認がたとえ得られなくても、「今の私は、確かにここにいて、自分自身の足で立っている」と、静かに感じられる、内なる充足感。

このような状態を育むためには、何かを外から「付け加えて高める」というアプローチよりも、むしろ、これまで無意識にまとってきた役割や期待、過去の脚本といった余計なものを手放し、本来の“ありのままの自分”へと「還っていく」というプロセスこそが必要なのではないでしょうか。

■ 結びに:自己肯定感とは、“あるべき理想の私”から、“今、ここに確かに在る私”への帰還の旅路

私が自己肯定感というテーマについて語るとき、そこにはいつも、この「還る(かえる)」という感覚が、通奏低音のように流れています。

それは、「理想の自分像」を追い求め、それを新たに作り上げていく、という未来志向の努力目標ではありません。むしろ、「いま、この瞬間に、確かにここに存在している、不完全で、揺れ動き、時に矛盾を抱えた自分自身と、もう一度深く、誠実に繋がり直す」という、現在地への意識的な回帰なのです。

この視点から自己肯定感というものを見つめ直し始めたとき、“自己肯定感”という言葉そのものが、何か達成すべき目標や、習得すべきテクニックではなく、「私たちが、自分自身との本質的な対話を取り戻し、より深く自分を理解し、受け入れていくための、かけがえのない“入り口”」へと、その意味合いを変えていくのではないでしょうか。

そして、その旅路の先にこそ、本当の意味での自己肯定——つまり、どんな自分であっても大丈夫だという、揺るぎない安心感が待っているのだと、私は信じています。

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