問いが私を癒し、変える 〜わからなさと共に在ることで、見えてくる自由〜

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■ はじめに:「答えの出ない問い」が、かつては苦痛の源だった

「探究とは、問いを持ち続けることだ」——これまで何度か、そんなお話をしてきました。しかし、正直に告白しますと、かつての私にとって「問い」とは、むしろ“不安”や“焦燥感”の源泉でした。

明確な答えがすぐに見つからないこと。

白黒はっきりとした結論に、なかなか辿り着けないこと。

言葉にできない複雑な感情を、整理できないまま抱え続けていること。

そうした状態が、当時の私にはとにかく“気持ち悪く”、耐え難いものとして感じられたのです。一刻も早く「正解」を見つけ出し、その居心地の悪さから逃れたいと、常にもがいていたように思います。

けれど、探究という名の旅を続ける中で、今は全く違う景色が見えています。

「わからないまま、問いを持ち続けることができる」ということ。それ自体が、実は、何にも代えがたい深い癒しと変容への入り口だったのだと、心の底から感じるようになったのです。

■ 問いが「癒し」を生む理由①:「ありのままの今の自分」を否定しない態度が育まれるから

「問いを持つ」という行為は、突き詰めれば、「まだわかっていない自分」「未完成な自分」と、誠実に向き合うことに他なりません。そして、その未熟さや不確かさも含めた自分自身を、ジャッジせずに、ただ「このままでいいのだ」と静かに認める行為でもあるのです。

  • 急いで完璧な答えを出さなくてもいい。
  • うまく言葉にできなくても、その口ごもる感覚のままで、ここにいられる。
  • 矛盾を抱え、揺れ動いている、そんな不完全な私にも、確かに存在する価値と居場所がある。

この、「未完で在ることへの許し」の体験が、私たちの内面に、まるで温かい毛布のような“安心の層”を、少しずつ、しかし確実に築いていきます。私が探究講座などで大切にしている「未完で在る力」とは、まさにこの、不確かさの中で自分自身を肯定し続ける力のことなのです。この安心感こそが、真の癒しの土壌となります。

■ 問いが「癒し」を生む理由②:過去の“封印された感情”に、そっと光を当てるから

探究の場で、例えば「なぜ私は、これほどまでに人の期待に応えようとしてしまうのだろうか?」といった、根源的な問いが誰かの中から生まれることがあります。

この種の問いは、単なる行動パターンの分析や、表面的な原因探しでは終わりません。その問いを静かに持ち続けていくと、その奥にはしばしば、「あのとき、誰かに心から必要とされなかったのかもしれない」「ありのままの自分では、愛されなかったのかもしれない」といった、過去の体験に紐づく、深く封印された“痛み”や“悲しみ”が眠っていることに気づかされるのです。

しかし、「問い」は、その痛みを無理やりこじ開け、引きずり出すようなことはしません。むしろ、長い間“触れられることのなかった感情”の存在に、ただ静かに気づき、そっと優しい光を当てる。まるで、固く閉ざされた扉を、いきなり開けるのではなく、まずその扉の前に佇み、静かにノックをするように。「問い」は、劇的な癒しの特効薬というよりも、むしろ、癒しのプロセスが始まるための扉を、そっと静かにノックし続ける存在なのかもしれません。

■ 問いが「変容」を生む理由:「次の一歩」を、自分の内側から静かに引き出してくれるから

誰かから「これが正解だ」と答えを与えられるのではなく、

誰かの生き方や、誰かが発する問いに深く触れることを通して、「では、私自身は、どう在りたいのだろうか?」という、自分自身の内側からの、本質的な問いが静かに芽生えてくる。

それは、誰かに強制されたものでもなければ、達成すべき目標設定でもありません。それは、まるで土の中から新しい芽が顔を出すように、自分自身の内側から、自然と立ち上がってくる“意志の芽”のようなものです。

私がこれまでお話ししてきた「意志的選択」という生き方も、まさにこの、内側から湧き上がる問いと、それに対する誠実な応答のプロセスから生まれてくるのだと、私は考えています。

「問い」は、私たちを外側から力ずくで変えようとするものではありません。むしろ、内側から、私たち自身が自らを変えていくための“静かで、しかし力強い触媒”として機能するのです。

■ 私なりの定義:「問い」とは、“過去の傷と、未来の可能性の両方を照らし出す光”

癒しも、変容も、おそらく「問い」なしには起こり得ないのでしょう。なぜなら、「問い」があるからこそ、人は、自分自身の“今おかれている現在地”と、そこに秘められた“未来への可能性”の両方を、同時に、そして深く見つめることができるからです。

「なぜ、あのとき私は、素直に泣くことができなかったのだろうか」(過去の傷への問い)

「私は本当は、この人生で何を成し遂げ、何を大切に生きたいのだろうか」(未来の可能性への問い)

「今感じている、この言葉にならない違和感は、私に何を伝えようとしているのだろうか?」(現在地と未来を繋ぐ問い)こうした、時に痛みを伴い、時に希望を灯す問いは、過去の未消化な経験に優しく手を当てながら、同時に、未来のより本質的な在り方へと私たちを導いていく、“時空を超えた通路”のようなものなのかもしれません。

■ 結びに:あなたの内なる問いは、どんな癒しと変化を、あなたにもたらしてくれるでしょう?

明確な答えが出ない問いを、長い間、意識的あるいは無意識的に避けてきた、という方もいるかもしれません。その気持ちは、痛いほどよくわかります。

でも、もし今あなたの心の中に、言葉にならないまま静かに疼いている“問いのかけら”があるのなら。それは、あなた自身を深く癒し、本質へと再構築していくための、かけがえのない入り口を示しているのかもしれません。

「問いを持つ」ということは、決して不安定な状態に身を置くことではありません。それはむしろ、“本当の自分に還っていくための、勇気ある、そして創造的なプロセス”なのだと、私は確信しています。

今日もまた、その問いと共に、静かに在り続けましょう。

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