問いは「持ち寄る」ことで深まる 〜孤独な探究が「共同体」で共鳴に変わる力〜

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■ はじめに:「問いと共にある」その先に見えてきたもの

私にとっての「探究」とは、必ずしも明確な答えを性急に求めるのではなく、むしろ「問いを持ち続け、その問いと共にある時間」そのものなのではないか、ということをよくお話しています。すぐに理解できないこと、割り切れないことの傍らに静かに座り、その「わからなさ」に誠実に触れていようとする姿勢の大切さについてです。

しかし最近、その「探究」という営みについて、もう一つ、私の中で非常に大切だと感じる気づきが、まるで静かな波紋のように広がってきました。それは、「問いとは、一人きりで孤独に抱え込み、深めていくものというだけでなく、信頼できる誰かと分かち合い、共に育んでいくことで、思いもよらないほど豊かで、より本質的な深みへと至るのではないか」ということなのです。

■ 探究講座の場で、幾度も立ち会う“共鳴と変容”の光景

私が主宰する探究講座のような「場」では、日常的に、この「持ち寄られた問いが、人と人とを繋ぎ、互いの探究を深め合う」という、静かで、しかし力強い現象が起きています。

  • ある参加者が、ずっと心の中で言葉にできずにいたモヤモヤとした感覚を、勇気を出して、たどたどしく語り始めたとき。それを聞いていた別の参加者から、ふと投げかけられた共感の言葉や、全く異なる角度からの問いかけによって、その最初の感覚が鮮明な輪郭を持ち、本人も驚くほどの明確な「問いの結晶」として立ち現れてくる。
  • 誰かが自身の深い葛藤や、日常の中で感じている言葉にならない違和感について語ると、それをただ静かに聞いていた他の誰かの内側で、自身の忘れかけていた経験や、心の奥底に眠っていた「問い」が呼び覚まされ、場全体の探求が一気に深まり、新たな視点が生まれてくる。

「ああ、まさにそれが、私がずっと表現したかったけれど、言葉にできなかった問いだったんです」

「そのお話を聞いて、私のこの長年の悩みも、実は同じ根っこに繋がっているのかもしれないと、初めて感じることができました」

このような、魂が触れ合うような“共鳴の瞬間”が、探究の場では、まるで呼吸をするように、ごく自然に、そして当たり前のように起こっているのです。それは、単に「互いの意見を理解し合う」とか「考えに同意する」といった、表面的なコミュニケーションのレベルではありません。もっと根源的な、それぞれの存在が持つ固有の問いやあり方が、互いに触発され、静かに“響き合う”という、言葉だけでは説明しきれない、深く温かい感覚に近いのです。

■ なぜ「問いの共有」が、これほどまでに深い変容を促すのか?

では、なぜこのように「問いを持ち寄り、共有する」という行為が、私たち一人ひとりの内面に、これほどまでに深い気づきや変容を促すのでしょうか。

私なりに表現するならば、「問いとは、その人の“生き方そのものの、まだ整理しきれていない、しかし極めて本質的な部分”が、言葉や感情を通して、他者の前に表出したもの」だからではないかと考えています。それは、完成された答えではなく、むしろその人の「ありのままの現在地」を示す、生々しくも尊い心の動きなのです。

だからこそ、その未整理な、時に混沌とした「問い」には、単なる情報や知識以上の、その人の魂の熱が込められています。そして、その個人的で切実な問いに、“ジャッジすることなく、ただ、共にあろうとする他者”が、一人でもいること。その安心感と受容的な眼差しに包まれることで、人は初めて「こんな未整理な自分、こんな矛盾を抱えた自分のままでも、ここにいて大丈夫なんだ」と感じられるようになり、自身の内面とより深く、正直に向き合う勇気を持つことができるのではないでしょうか。

■ 「答えなき問い」を安心して共有できる関係性が、心の安全基地となる

現代社会は、とかくスピードと効率、そして明確な「正解」を求められる時代です。わからないままではいけない。すぐに意味づけをし、結論を出さなければいけない。そんな無言のプレッシャーが、常に私たちを追い立てているように感じます。

しかし、「問いを持ち寄る共同体」——私が探究講座などで育んでいきたいと願っている場では、むしろその逆のことが起こります。

  • 整理されていなくても、ためらいがちな、整っていない言葉が、歓迎される。
  • まだ明確な形になっていない、中途半端な気づきや疑問に、誰かがそっと光を当て、共に考えてくれる。
  • 無理に答えを出さなくても、その「わからない」という状態のままで、安心して“その場にいていい”という、受容的な空気がある。

それはまさに、“未完であることを恐れず、むしろそれを肯定し、探求の出発点とする文化”と言えるかもしれません。

■ 私が考える「問いの場」とは、“自分が道の途中であることを、互いに認め合える場所”

「問いを持ち寄れる関係性」とは、言い換えれば、「わかっているふり」や「すでに答えを持っているふり」といった、見栄や体裁を一切必要としない関係性だと言えるでしょう。

「まだ自分でもよくわかっていないのだけれど、最近、こんな風に感じているんです」

「言葉にはうまくできないのだけれど、どうにも心にひっかかっていることがあって…」

「これは、もしかしたら見当違いな問いかもしれないけれど、少し話してみてもいいですか?」

こうした、まだ形にならない、まさに“道の途中の言葉”を、安心して差し出し、それを受け止めてくれる仲間たちがいること。その存在こそが、人が自分自身の内面を、他者を恐れることなく、もっと深く、もっと自由に探求していくことを可能にするのです。

■ 「共同体」とは、“共に問い、共に揺れる、有機的な生命体”なのかもしれない

コミュニティという言葉が、昨今よく使われます。しかし、私が「探究」という文脈で大切にしているのは、単なる集まりやグループではなく、“共に問い、悩み、時に迷いながらも、そのプロセスを分かち合うことを厭わない、有機的な生命体”としての「共同体」というニュアンスです。

それは、ただ楽しく集うためだけの場所でもなければ、必ずしも同じ価値観や信条を共有することを目的とする集団でもありません。むしろ、一人ひとりが抱える“わからなさ”や“内なる揺れ”を、安全な場に持ち寄り、共に考え、共に感じ、時には共に言葉を失い、静かに黙る。

それが自然にできる共同体は、私たちを単純に「強く」するのではありません。むしろ、不確実な世界の中で、答えのない問いと共に生き続けるための「しなやかさ」を、静かに育んでくれるのではないでしょうか。

■ 結びに:あなたの心の中にある「問いのかけら」は、どこで響き合うことを待っているでしょう?

もし今、あなたの心の中に、まだ誰にも語られることなく、あるいはあなた自身もまだ明確な言葉にできないまま、静かに眠っている“問いのかけら”があるとしたら——。

それを、“自分ひとりだけの問題として、なんとか解決しようとする”のではなく、“信頼できる誰かや、安心できる場へと、そっと持ち寄ってみる”という選択肢があることを、どうか思い出してみてください。

「問いを持ち寄れる場」とは、あなたにとって、自分自身の内面と、より深く、より創造的に出会うための、“安心できる、魂の実験室”のような場所になるかもしれません。

私が育む探究講座もまた、そんな、一人ひとりが持ち寄る様々な「問い」たちが、他の誰かの問いと出会い、予期せぬ形で共鳴し合い、新たな気づきや言葉となって、静かに、しかし確かに芽吹いていく。そんな奇跡のような瞬間が、日々生まれている場所なのです。

あなたの内なる問いが、温かな繋がりの中で、より豊かに花開いていくことを、私は望んでいます。

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