探究とは何か? 〜答えではなく「問いと共に生きる」という私の日常〜

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■ はじめに:「探究」が、いつしか私の“日常の体質”になっていた

「探究」という言葉を、私が意識して使い始めたのは、一体いつからだったでしょうか。

正直なところを告白しますと、使い始めた当初は、どこか自分自身が知的なものに憧れて、少し背伸びをして選んだ言葉のような、そんな気恥ずかしさも感じていました。

しかし最近、ふとした瞬間に、こんな気づきが訪れたのです。

「探究とは、もはや特別な行為ではなく、自分にとって呼吸をするように自然な“日常の体質”のようなものになっているのではないか」と。

それは、単なる旺盛な知的好奇心とも、何かを学び続けたいという向上心とも、少しニュアンスが異なる感覚です。もっと静かで、より個人的で、そして時として切実な、“すぐには答えの出ないもの、簡単には割り切れないもの、そのわからなさそのものに、ただ触れていたい、留まっていたい”という、心の奥底からの欲求に近いものかもしれません。

■ 私にとって「探究」とは、“問いのままに、ただそこにいられる時間”

誰かに明確な答えを提示するためでもなく、

目に見える成果や効率を追い求めるためでもなく、

ただ、「いま、目の前にあるこの問いに対して、自分自身がどこまでも誠実でいたい」と、心の底から思える時間。

それが、私にとっての「探究の時間」なのではないか、と感じています。

例えば、日々の生活の中でふと立ち現れる、こんな問いかけ。

  • なぜ自分は、ある人の何気ない一言に対して、これほどまでに心が反応し、波立つのだろうか?
  • なぜ私は、良かれと思ってしたことが、結果的に相手をコントロールしようとする形になってしまうことがあるのだろうか?
  • 今、この瞬間に感じているこの感情は、本当に“今、ここ”から湧き上がってきたものなのか、それとも“過去の未消化な体験”の単なる再演に過ぎないのだろうか?

そうした、時に答えに窮するような問いに対して、急いで「正しい答え」や「合理的な説明」を導き出そうとするのではなく、“ただ、その問いそのものを大切に持ち続け、その問いと共に在ること”、そのプロセス自体が、私にとっての「探究」の本質なのではないか、と思うのです。

■ 最近の探究から:「正しさ」を手放したとき、初めて“本音の対話”が動き出した

最近、ある方との対話の中で、私自身にとって非常に象徴的な「探究」の体験がありました。

相手が真剣に何かを語っている最中、私の頭の中では、「相手はこう言ってほしいのではないか」「こういう言葉を返せば、場が丸く収まるだろうか」「論理的に矛盾はないだろうか」といった思考が、絶えず巡っていました。いわば、“正解探しモード”に入ってしまっていたのです。

しかし、その思考の回転がピークに達した瞬間、ふと、もう一人の自分がこう囁いたのです。

「いま、この“考えてばかりいる私”こそが、本当の意味での探究を、相手との真の対話を、自ら止めてしまっているのかもしれない」と。

相手の言葉に対して、反射的に“評価”したり、“答え”を出そうとしたりする瞬間、私たちの内側にある“ありのままを感じ取る感受性”の回路は、不思議と閉じてしまうようです。

そのことにハッと気づいた瞬間、私は意識的に「考えること」を手放し、ただ相手の言葉の響きや、その場の空気、そして自分自身の内側で微細に動く感情に、「ただ、感じること」へと意識を戻してみました。

そうすると、驚いたことに、それまで膠着していたかのような対話が、自然とほどけ始め、お互いの心の奥にある、言葉にならなかった“本音”のようなものが、静かに顔を出し始めたのです。

それは、何か明確な問題が“解決”したというわけではありませんでした。しかし、そこには確かに、お互いの存在が深く“共鳴”し合ったという、かけがえのない手応えがありました。これもまた、私にとっての探究の賜物だったと感じています。

■ 探究の本質とは、“すぐにわかろうとしない強さ”と“未完でいられる勇気”

私が探究講座などで、繰り返しお伝えしたり、実践したりしていることに、「未完のまま、語り合う」という姿勢があります。

  • まだ自分の中で明確な答えが出ていなくても、そのプロセスを言葉にしてみる。
  • 考えが十分に整理されていなくても、その混沌とした状態のまま、問いを誰かと共有してみる。
  • すぐには理解できないこと、わからないことを、無理にわかろうとせず、その「わからない」という感覚のまま、誰かと一緒にそこに居続けることを自分に許す。

これらの一つひとつが、私にとっては「探究」という営みの、かけがえのない本質であるように思います。探究とは、知識を蓄積し、誰よりも物知りになることではありません。それはむしろ、「知っているふり」という鎧を脱ぎ捨て、「まだわかっていない、探求の途上にいる自分」でいることを、自分自身にも、他者にも、正直に許せる勇気。そして、答えが見えない不安の中でも、「すぐにわかろうとしない、結論を急がない」という、ある種の“知的な体力”や“精神的な強さ”なのかもしれません。

■ 結びに:探究とは、“問いを持ち続ける私”と、出会い続ける旅

おそらく私は、これからも人生を通して、明確な答えを求め続けながらも、同時に、その「答え」そのものには過度にこだわらずに生きていくのでしょう。次から次へと湧き上がる「問い」に、時には振り回され、迷いながらも、それでもなお、その問いの傍らに立ち返り、そこからまた新たな一歩を踏み出そうとするだろうと思います。

私にとって探究とは、「今よりもっと良い自分になること」や「何かを達成すること」を最終目標とするものではありません。それはむしろ、「変化し続ける世界の中で、移ろいやすい自分自身の内面と向き合い続け、その時々で、より誠実な私、より本質的な私に、出会い続けること」——そんな、終わりなき旅路そのものなのです。

今日もまた、心の中に生まれた小さな問いのそばで、静かに呼吸をしながら、私は「私の探究」という名の、かけがえのない日常を生きていきたいと思います。

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