脚本を降りた「私」は何を選ぶ? 〜感情の波を超え、意志で生きる「真の自己」を探る〜

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

■ はじめに:「本当の自分」への問いが、静かに始まる

「この反応パターンは、もう手放そう」

「この思い込みは、私を縛っていただけだったんだ」

前回の記事までで、「ラケット感情」や「人生脚本」といった、私たちを無意識のうちに動かしてきた心の構造に光を当ててきました。そのプロセスを通して、長年演じてきた役割や、身にまとっていた感情の鎧に気づき、それを少しずつ降ろし始めた方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、その先で、多くの人が新たな問いに直面するのではないでしょうか。

「では、役割や脚本を脱ぎ捨てたあとに残る、『本当の自分』とは、一体何なのだろう?」

「これまで自分だと思っていたものは、作られた仮面だったとしたら、その奥にあるはずの素顔とは、どんなものなのだろう?」

私たちは長い間、「良い子でいなければ」「ちゃんとしなければ」「強くあらねば認められない」といった、“他者からの期待”や“社会的な役割”を自分の本質であるかのように生きてきた側面があります。その役割意識が薄れ、慣れ親しんだ脚本が力を失ったとき、私たちの前に立ち現れてくる、より深く静かで、本来的な自己——それこそが、私たちが探求すべき「真の自己」の姿なのです。

■ 「真の自己」は、ただの“素の感情”とは少し違う

ここで一つ、私たちが陥りやすい誤解があるように思います。それは、「本当の自分=ありのままの感情、素の感情」である、という捉え方です。

例えば、「ついカッとなってしまう、これが私の本音なんだ」「涙が止まらない、これが偽らざる本当の私だ」といったように。もちろん、感情は私たちの大切な一部であり、それを感じ、表現することは重要です。しかし、私が探求を通して感じている「真の自己」とは、単にその時々の感情に突き動かされる存在とは異なります。

むしろ、真の自己とは、どのような感情の嵐が内側で吹き荒れていたとしても、それに完全に飲み込まれることなく、「それでもなお、私はこのように在りたい」「私はこちらを選ぶ」と、静かに、しかし確かな方向性を指し示すことができる、“意志”の力と深く結びついているものなのです。

それは、どんな感情が自分の中に湧き上がってきても、それを客観的に認識し、受け止めた上で、「それでもなお、私はどう在ることを選びたいか?」と、主体的に応答する力、と言い換えることもできるでしょう。

■ 「意志」で生きるということ——感情と共に、しかし支配されずに

「怖い。けれど、それでも私は『信頼する』ことを選ぶ。」

「不安でたまらない。けれど、私は『対話を続ける』ことを選ぶ。」

「強い怒りを感じている。けれど、私は『暴力的な言葉は使わない』ことを選ぶ。」

こうした態度は、その瞬間の感情から自動的に生まれてくる反応ではありません。それは、感情の存在を認めつつも、それに短絡的に反応するのではなく、自分が大切にしたい価値観やあり方に基づいて、意識的に「意志」によって選び取られる行動です。

ここで言う「意志」とは、感情を無理やり抑えつけたり、無視したりするような、硬直した自己抑制のことではありません。むしろ逆です。自分の中に湧き起こる様々な感情——喜びも、怒りも、悲しみも、怖れも——そのすべてを否定せずに認め、抱きしめながらも、その感情の波に安易に飲み込まれず、自分が本当に望む方向へと舵を切っていく力。それが、「意志で生きる」ということの本質だと、私は考えています。

泣きたい気持ちのままで、それでもやるべきことに向かう。

怖いと感じながらも、大切な対話の場から逃げない。

過去に傷ついた経験があっても、もう一度だけ人を信じてみようと決める。

これができる人は、「様々な感情を豊かに感じながらも、それに支配されることなく、自らの選択によって人生を歩む人」となります。私が以前から「揺れながらも、それでも歩き続ける人」と表現してきたのは、まさにこのような在り方のことなのです。不安定さや矛盾を完全に消し去るのではなく、それらを抱えたまま、前に進むことを自分に許せる力です。

■ 「真の自己」は完成形ではなく、“選び続けるプロセス”の中に

ここで重要なのは、「これが私の揺るぎない真の自己だ!」と、何か固定された答えを見つけ出し、それに到達することがゴールではない、ということです。むしろ、「真の自己」とは、常に変化し、成長し続けるプロセスそのものであり、日々の「選択」を通して形作られていくものだと私は考えます。

大切なのは、完成された「真の自己」を探すことよりも、むしろ、常に自分自身に問い続けることではないでしょうか。

「いま、私を突き動かしているこのエネルギーの源泉は、何だろうか?」

「それは、過去の脚本からくる自動的な反応(恐れ)なのか、それとも未来への信頼に基づく選択なのか?」

「私が心の底から望んでいる“生き方”や“在り方”と響き合っているのは、どちらの選択だろうか?」

この内なる問いを、日々の小さな選択の場面で、繰り返し自分自身に投げかけ続けること。そして、そのたびに、たとえ僅かであっても“意志ある選択”を積み重ねていくこと。そうして生まれる、一連の選択の軌跡、そのプロセスの中にこそ、あなたの「真の自己」と呼べるものが、まさに立ち現れてくるのではないでしょうか。

■ 「真の自己」は一人では育たない。共に見つめ、育む場

最後に、もう一つ大切なことがあります。それは、「真の自己」とは、決して“一人きりで育て上げるもの”ではない、ということです。

私たちは、他者との関わりの中でこそ、自分自身を深く知ることができます。

誰かとの関係の中で傷つき、もがき、葛藤する経験。

そして、誰かにありのままを受け止められ、共感され、心が深く満たされる経験。

その喜びも痛みも含めた他者とのリアルな体験のすべてが、ダイヤモンドの原石を磨き出すように、あなたの“本質”を輝かせてくれるのです。

だからこそ私は、これまでも、そしてこれからも、「共に探究する場」としてのコミュニティを大切に育んでいきたいと考えています。そこでは、社会的な役割や立派な肩書きなどは必要ありません。ただ、時に揺れ動き、迷いながらも、それでも自分の内面と向き合い、前に進もうとする仲間たちがいる。互いが互いの「真の自己」を照らし出す、安全で、正直で、温かい“鏡”のような存在となれる。そんな関係性そのものが、私たちが「真の自己」と共に生きていく上で、かけがえのない支えとなるはずです。

あなたは今日、どんな「意志ある選択」をしてみたいですか?

過去の脚本から自由になり、新しい自分として踏み出す一歩を、恐れずに、しかし丁寧に対話しながら、始めてみませんか。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

CAPTCHA