
■ はじめに:「選べるはずなのに、なぜか重苦しい」自由の正体
情報は私たちの指先にあり、選択肢はかつてないほど豊かに広がっています。「自分のやりたいことを、自由に選んでいいんだよ」——そんな声が当たり前のように聞こえる時代に、私たちは生きています。
しかし、その輝かしい「自由」の裏側で、こんな感覚を抱いたことはないでしょうか。
「選択肢は目の前にあるのに、なぜか一歩を踏み出せない」
「自分で決めたはずなのに、これで本当に良かったのかという不安が消えない」
「あまりに多くの可能性を前にして、かえって途方に暮れてしまう」
この、“自由であるはずなのに、なぜか感じる重圧や不安”。この感覚に、最も深く、そして鋭く向き合った思想家の一人が、19世紀デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールです。彼の思索は、現代を生きる私たちの「自由と幸福」を考える上で、非常に重要な示唆を与えてくれます。
■ キェルケゴール:「絶望」とは、“本来の自分”から逃避する病
実存主義の先駆けとも言われるキェルケゴールは、その著作『死に至る病』の中で、「絶望」について深く考察しました。彼にとって絶望とは、単なる気分の落ち込みではありません。それは、「人間が、本来なるべき自分自身であろうとすることを諦めてしまう、あるいは、自分自身であろうとすることから逃避してしまう状態」を指す、より根源的な魂の病なのです。
彼は、人間には根源的に「本来の、真実の自己」になろうとする内的な衝動(意志)があると考えました。しかし同時に、その「自己」と真剣に向き合い、その可能性を主体的に選び取っていくという「自由」は、私たちにとって途方もない責任と不安を伴うものでもある。だからこそ、人はしばしばその自由の重圧から逃れるために、本来の自己ではない「別の何か(例えば、社会的な役割や他者の期待)」に依存したり、あるいは絶望のうちに自己を見失ったりしてしまう構造がある、と彼は指摘しました。
自由とは、単なる解放や喜びであると同時に、「自分が、この人生においてどのような存在としてあるべきかを、他ならぬ自分自身だけが決定しなければならない、という孤独で引き受けがたい重圧」でもある。キェルケゴールの言葉は、自由の持つこの両義性を鋭く突いています。
■ サルトル:「人間は自由の刑に処されている」——選択の責任という宿命
キェルケゴールの思索を受け継ぐ形で、20世紀フランスの実存主義者ジャン=ポール・サルトルもまた、「自由」について強烈な言葉を残しています。「人間は自由の刑に処されている」と。
これは、人間は神や本質といった、あらかじめ定められたものに依拠することなく、完全に自由な存在としてこの世に投げ出されている、という意味です。しかし、その自由は、同時に、“自分が何者であるか、そしてどう生きるかを、すべて自分自身の選択によって決定し、その結果の全責任を負わなければならない”という、逃れることのできない宿命を私たちに課す、というのです。
何にも依存できないがゆえに、私たちは常に「選択」を迫られる。
もし私たちが主体的に選ばなければ、それは他者の価値観や社会の期待に流され、「他人の人生」を生きることになるかもしれません。
しかし、主体的に選んだとしても、その選択が必ずしも成功するとは限らず、失敗した場合には、その責任は全て自分自身に降りかかってくる。この“選択の自由=選択の責任”という、人間存在の根源的な構造こそが、時に私たちを疲弊させ、自由であることの重さに圧倒されてしまう原因となるのです。
■ 自己決定理論:心理学が示す「自由」と「幸福感」が結びつく条件
では、私たちはこの「自由の重圧」と、どう向き合っていけば良いのでしょうか。ここで、現代心理学における重要な理論の一つである、自己決定理論(Self-Determination Theory, SDT)の知見が、大きなヒントを与えてくれます。
SDTによれば、人間が持続的な幸福感やウェルビーイングを感じるためには、主に次の3つの基本的な心理的欲求が満たされる必要があるとされています。
- 自律性 (Autonomy):自分の行動を、他者からの強制や報酬のためではなく、自分自身の意志や価値観に基づいて選択できている、という感覚。
- 有能感 (Competence):自分には周囲の環境に効果的に関わり、目標を達成したり、課題を乗り越えたりする能力がある、という感覚。
- 関係性 (Relatedness):他者と安全で、温かく、相互に尊重し合えるような、意味のある繋がりを持っている、という感覚。
この理論が示唆するのは、「ただ選択肢が多い」というだけの自由では、必ずしも幸福には繋がらない、ということです。その自由が、自分自身の内なる価値観と結びついた「自律的な選択」であり、その選択を通して「自分にはできる」という有能感を感じられ、かつ、その営みが「信頼できる他者との温かい関係性」の中で支えられていること。これらの要素が揃って初めて、「自由」は私たちに真の幸福感や充実感をもたらしてくれるのです。
逆に言えば、「選べるけれど、その選択に意味を見出せない」「選べるけれど、自分の力で何かを成し遂げられる自信がない」「選べるけれど、誰とも心から繋がっていない」——そんな孤立した自由は、かえって私たちを孤独や無力感、そして不安へと追いやってしまう危険性すらあるのです。
■ 私の視点:「自由」とは、“意味を自ら創造し続ける、内なる力”
キェルケゴールやサルトルの実存的な問い、そして自己決定理論が示す心理的な条件。これらの思索を踏まえ、私が「自由」というものを捉え直すとき、それは何か特別な状態や能力というよりも、むしろ“世界や自分自身に対して、主体的に意味を与え、創造していく内なる力”そのものなのではないか、と感じています。
- キェルケゴールやサルトルの実存的な問い、そして自己決定理論が示す心理的な条件。これらの思索を踏まえ、私が「自由」というものを捉え直すとき、それは何か特別な状態や能力というよりも、むしろ“世界や自分自身に対して、主体的に意味を与え、創造していく内なる力”そのものなのではないか、と感じています。
- 社会一般で良しとされる「幸せの形」に自分を合わせるのではなく、自分が心から納得し、充実感を得られる独自の生き方を、試行錯誤しながら創り上げていくこと。
- 絶対的な「正しさ」や「完璧さ」を求めるのではなく、常に変化し続ける状況の中で、「今の自分が、最も誠実でいられる選択は何か?」と、粘り強く問い続けること。
その、答えのない問いと向き合い、自分なりの意味を紡ぎ出そうとするプロセスそのものが、「本質を生きる自由」の姿なのではないか、と私は見ています。そしてそれは、キェルケゴールが語った、絶望の淵から「本来の自己」であろうとすることを選ぶ“実存的選択”のあり方と、静かに、しかし深く響き合っているように思うのです。
■ 結びに:「自由の不安」は、私たちが“生きている”ことの確かな証
「自由」とは、決して「何をしてもいい」「何の制約もない」という、手放しの楽園ではありません。
むしろ、それは、「“自分であること”を選び続けるという、時に孤独で、しかし創造性に満ちた、終わりなき営み」そのものなのです。
キェルケゴールが語ったように、不安とは、「無限定な可能性を持つ者」だからこそ抱く感情です。何者にもなれる、どこへでも行ける。その無限の可能性を前にしたとき、私たちは同時に、道を選び取る責任と、その選択がもたらすかもしれない未知なる結果への、言いようのない不安を感じるのです。
ですから、もしあなたが今、自由であることの重圧や、選択することの不安を感じているのなら。
それは、あなたが何かが欠けているからでも、間違っているからでもありません。
むしろ、「あなたが、真に自由な一人の人間として、自身の人生と誠実に向き合い、その可能性を真剣に生きようとしていることの、かけがえのない証」とも言えるのです。
その不安と共に、今日もまた、あなた自身の「意味」を選び取っていく。その創造的なプロセスを楽しんでいきましょう。