
■ はじめに:心のざわめきと、勝手に始まる「最悪の物語」
ある朝。いつものようにコーヒーを淹れながら、ふと、以前から少し気になっていたある案件のことが頭をよぎりました。
「そういえば、Aさんからまだ返信が来ていないな…」
この一文が思考に浮かんだ、ほんの数秒後。私の心の奥で、何かが静かに、しかし確実にざわつき始めるのを感じます。
「もしかしたら、この話はもう進まないのかもしれない」
「先方の意向に沿えず、提案が拒否されたのではないか」
まるで自動再生のように、まだ起こってもいない未来の“最悪のケース”を描いたストーリーが、次から次へと脳裏に流れ出してくるのです。あなたにも、似たような経験はありませんか?
■ 不安の正体は、脳が作り出す“未来への備え”?
心理学的な視点で見ると、このような「不安」という感情は、多くの場合、未来の不確実性に対する私たちの脳の自動的な反応なのだと言われます。
私たちの脳には、過去の経験や知識に基づいて未来を予測し、起こりうる危険に備えようとする、いわば“未来シミュレーター”のような機能が備わっています。不安という感情は、このシミュレーターが「まだ起きていない未来の、考えうる最悪のパターン」を想像し、それに先回りして私たちに警告を発し、身を守らせようとする、ある種の生存本能に根差した仕組みなのかもしれません。
しかし、ここが興味深く、そして少し厄介なところなのですが、脳が描き出すその最悪のパターンは、あくまでも「数ある可能性のひとつ」に過ぎません。にもかかわらず、私たちはしばしば、その特定のネガティブな予測だけを“揺るぎない真実”であるかのように強く信じ込み、その感情に心を支配されてしまうのです。

■ 感情に「気づき、名付ける」ことで、取り戻せる俯瞰の視点
では、そんな風に不安のストーリーが頭の中で勝手に回り始めたとき、私はどうしているか。近年、私が意識的に実践しているのは「感情のラベリング(名付け)」という、とてもシンプルなアプローチです。
心の中で渦巻いている、モヤモヤとした捉えどころのない感情に、意識的に気づき、言葉を与えてみるのです。例えば、こんな風に。
「ああ、いま、私は“不安”を感じているな」
「胸のあたりがザワザワするのは、“焦り”かもしれない」
「この落ち着かない感じの根っこには、“無視されることへの怖れ”があるのかもしれないな」
不思議なことに、ただそれだけで、自分を飲み込もうとしていた感情の渦から少し距離が取れ、まるで外から眺めるように、その感情を“客観的な対象”として捉え直せるようになることがあります。

これは、私が探究しているセドナメソッドやフォーカシングといった他のアプローチにも通じる感覚ですが、「感情を感じること=感情に流されること」では決してないのです。むしろ、自分の内側で起きている感情に丁寧に気づき、それを否定せずに“感じきる”ことによって、私たちは初めて、感情の波から自由になり、冷静で俯瞰的な視点を取り戻すことができるのではないでしょうか。
■ 「信頼」とは、感情の状態ではなく、“主体的な選択”である
感情が大きく揺さぶられているとき、私たちはしばしば「相手を信じたいけれど、不安で信じられない」といった葛藤に陥ります。まるで、安心できる感情がなければ、信頼することは不可能であるかのように。
しかし、最近私は、このように考えるようになりました。
「信頼とは、安心という感情の結果なのではなく、むしろ不確実性の中で『あえて信じる』と決める、私たちの“主体的な選択”なのではないか」と。
確かに、相手からの明確な約束や、状況がコントロールされているという確証があれば、私たちは安心感を得やすいでしょう。しかし、現実のビジネスや人間関係において、そんな“完全な保証”など、ほとんど存在しません。未来は常に不確かです。
だからこそ、私たちは感情の波にただ揺さぶられるのではなく、「たとえ不安があったとしても、私は相手の可能性を、そして未来を『信じる』ことを選択する」と決める。それは、まるで不確かな未来に対して“先にエネルギーを投資する”ような、能動的で勇気ある行為なのかもしれません。この「選択としての信頼」こそが、新たな現実を創り出す力になるのだと感じています。

■ 揺らぎと共に、それでも一歩前に進むということ
かつての私は、不安やネガティブな感情を完全になくそう、完璧にコントロールしようと躍起になっていました。しかし、その試みは、実のところ、私自身をさらに疲れさせ、消耗させるだけでした。
今は、不安という感情が自分の中に湧き上がってくること自体は、もう自然なこととして受け入れています。大切なのは、不安をゼロにすることではなく、不安に「気づける」自分であること。そして、それに気づいた上で、次にどのような「選択」をするか、ということなのだと思います。
「ああ、今日もまた、あの不安が出てきたな。でも、大丈夫。ちゃんとそれに気づけている」
そう思えるようになったことで、以前よりもずっと心が軽くなりました。
私たちのメンタルや感情は、打ち負かすべき「敵」ではありません。むしろ、人生という長い旅を共にする、少し気まぐれだけれど憎めない“同行者”のようなものなのかもしれません。その日その日で、その同行者との距離感を少しずつ調整しながら、対話を続けながら、それでも私たちは、ちゃんと前に進んでいくことができるのです。